藤藪  詩歌管弦 2023

作品ではありません。ノート、備忘録。

歌論

やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。

            「仮名序」 紀貫之

 

現代歌人にとって 「ことば」とは

 人間の心に籠る言霊を声に出す率直な表現   青木春枝

 心の窓のショーウインドー          青柳幸秀

 心を伝える方法               秋元千恵子

 言の葉、確かな知性の輝きである       安藤昭司

 豊かな心の表れでありたい          井口世津子

 私である。あなたである。          池田友幸

 命のシンフォニー(現今猥雑作が多すぎる)  石井和子

 真実相を顕し人の魂を伝える物        伊藤宏見

 

 人は心にあふれることを語るのである。      ルカ伝 46

 

 ニュアンスの豊かさは私の誇り・喜び・慰めです。 井上美地

 人の心を柔らかにする力             内野潤子

 自らの存在と生を確認するよすがよなるもの    江畑 實

 たましいのしずく                扇 龍子

 

  

 

万葉集

 

1 あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

                  額田王

2 ひんがしの のにかぎろいの たつみえて かえりみすれば つきかたぶきぬ

                 柿本人麻呂

3 わが背子を 大和へ遣ると さよふけて あかときつゆに われたちぬれし

    大伯皇女  待っているうちに夜がふけて  弟を失った皇女の歌

4 われもはや やすみ児えたり 皆ひとの得かてにすとう やすみこえたり

           結婚相手を得た喜び

5 君待つと わがこいおれば わがやどの すだれうごかし あきのかぜふく

                  額田王

6 春すぎて夏きたるらし白たへの衣干したり天の香具山

                  持統天皇

7 しろかねも くがねもたまも なにせむに まされるたから こにしかめやも

                  山上憶良

8 しるしなき ものをおもわずは ひとつきの にごれるさけを のむべくあるらし

                  大伴旅人

9 きみがいく みちのながてを くりたたね やきほろぼさん あめのひもがも

        さののおとかみおとめ   夫の流刑のときの心情

10 あらたしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけよごと

                  大伴家持

11 たびびとの やどりせんのに しもふらば わが子はぐくめ まめのたづむら

             遣唐使随員の母  空を飛ぶ鶴たちよ

12 家にあれば けにもる飯を 草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

            有間皇子 捕らえられ護送されている

13 憶良らは いまはまからん こなくらん それその母も わをまつらんそ

                  山上憶良

14 さきもりに いくはたがせと とうひとを みるがともしさ もの思ひもせず

                  防人の妻

15 たらちねの ははがてはなれ かくばかり すべなきことは いまだせなくに

                  作者不詳

16 あきやまの 紅葉を茂み 惑いぬる いもをもとめむ 山路しらずも

                 柿本人麻呂  妻を亡くして

17 わがせこと ふたりみませば いくばくか このふるゆきの うれしからまし

              光明皇后  留守の夫に書き送った歌

18 田子の浦ゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりつつ

                  山部赤人

19 あさかげに わが身はなりぬ たまかざる ほのかにみえて いにしこゆえに

             作者不明  身はやせ細り 恋煩いの歌

 

https://tankanokoto.com/2019/11/manyou20.html を参照しつつ 作業中

古今和歌集

色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける

                小野小町

つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを

                在原業平

大方の秋来るからにわが身こそ悲しきものと思ひ知りぬれ

              よみ人知らず

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

                在原業平

見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける

                素性法師

五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

              よみ人知らず

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

                藤原敏行

我のみやあはれと思はむきりぎりす鳴く夕影の大和撫子

                素性法師

あさぼらけありあけの月と見るまでによしののさとにふれるしらゆき

                  是則

雪降れば冬籠もりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける

                紀 貫之

風吹けば落つるもみぢ葉水清み散らぬ影さえ底に見えつつ

                凡河内躬恒

なにをしてみのいたづらにおいぬらんとしのおもはんことぞやさしき

                おきかぜ

 

和泉式部集

男に忘られて侍りけるころ、貴船に参りて御手洗川に蛍の飛び侍りけるを見てよめる

ものおもへば沢の蛍わが身よりあくがれいづる魂かとぞ見る

  御かえし

奥山にたぎりて落つる滝つ瀬に魂ちるばかり物な思ひそ

 

男に忘れられたことを悩み、貴船明神に参詣。

「川の蛍はわが身から抜け出した魂ではないか」

貴船の神の返歌

「水の玉を砕く、魂を砕くほどの物思いはやめなさい」

 

あらざらん この世のはかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな

重い病の床から。死んだあの世での思い出に、もう一度お逢いしたい。

 

男がはじめて女に贈る恋歌 代作

おぼめくな誰ともなくて宵々に夢に見えけん我ぞその人

 

遠方へ行く女性を感動させる別れ歌 代作

惜しまるる涙に影はとまらなむ心も知らず秋は行くとも

別れの涙にあなたの面影はとどまってほしい

 

黒髪の乱れも知らずうち臥せばまづかきやりし人ぞ恋しき

 

 

与謝野晶子

その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな

 

清水へ祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき

 

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

 

・・・

 白桜集 1942年

我れのみが長生の湯にひたりつつ死なで無限の悲しみをする

 

 

 晶子詩篇全集     雲片片

 

草と人

如何いかなれば草よ、
風吹けば一方ひとかたに寄る。
人の身は然しからず、
己おのが心の向き向きに寄る。
何なにか善よき、何なにか悪あしき、
知らず、唯ただ人は向き向き。

賀川豐彦さん

わが心、程ほどを踰こえて
高ぶり、他たを凌しのぐ時、
何時いつも何時いつも君を憶おもふ。

わが心、消えなんばかり
はかなげに滅入めいれば、また
何時いつも何時いつも君を憶おもふ。

つつましく、謙へりくだり、
しかも命と身を投げ出いだして
人と真理の愛に強き君、
ああ我が賀川豐彦とよひこの君。


人に答へて

時として独ひとりを守る。
時として皆と親したしむ。
おほかたは険けはしき方かたに
先まづ行ゆきて命傷つく。
こしかたも是これ、
行ゆく末すゑも是これ。
許せ、我が斯かかる気儘きまゝを。


晩秋の草

野の秋更けて、露霜つゆしもに
打たるものの哀れさよ。
いよいよ赤む蓼たでの茎、
黒き実まじるコスモスの花、
さてはまた雑草のうら枯かれて
斑まだらを作る黄と緑。


書斎

唯ただ一事ひとことの知りたさに
彼かれを読み、其それを読み、
われ知らず夜よを更かし、
取り散らす数数かずかずの書の
座を繞めぐる古き巻巻まきまき。
客人まらうど[#ルビの「まらうど」は底本では「まろうど」]よ、これを見たまへ、
秋の野の臥ふす猪ゐの床とこの
萩はぎの花とも。


我友

ともに歌へば、歌へば、
よろこび身にぞ余る。
賢きも智を忘れ、
富みたるも財を忘れ、
貧しき我等も労を忘れて、
愛と美と涙の中に
和楽わらくする一味いちみの人。

歌は長きも好よし、
悠揚いうやうとして朗ほがらかなるは
天に似よ、海に似よ。
短きは更に好し、
ちらとの微笑びせう、端的の叫び。
とにかくに楽し、
ともに歌へば、歌へば。


わが恋を人問ひ給たまふ。
わが恋を如何いかに答へん、
譬たとふれば小ちさき塔なり、
礎いしずゑに二人ふたりの命、
真柱まばしらに愛を立てつつ、
層そうごとに学と芸術、
汗と血を塗りて固めぬ。
塔は是これ無極むきよくの塔、
更に積み、更に重ねて、
世の風と雨に当らん。
猶なほ卑ひくし、今立つ所、
猶なほ狭し、今見る所、
天あまつ日も多くは射ささず、
寒きこと二月の如ごとし。
頼めるは、微かすかなれども
唯ただ一つ内うちなる光。


己おのが路みち

わが行ゆく路みちは常日頃つねひごろ
三人みたり四人よたりとつれだちぬ、
また時として唯ただ一人ひとり。

一人ひとり行ゆく日も華やかに、
三人みたり四人よたりと行ゆくときは
更にこころの楽たのしめり。

我等は選えりぬ、己おのが路みち、
一ひとすぢなれど己おのが路みち、
けはしけれども己おのが路みち。


また人に

病みぬる人は思ふこと
身の病やまひをば先さきとして
すべてを思ふ習ひなり。
我は年頃としごろ恋をして
世の大方おほかたを後のちにしぬ。
かかる立場の止やみ難がたし、
人に似ざれと、偏かたよれど。


車の跡

ここで誰たれの車が困つたか、
泥が二尺の口を開あいて
鉄の輪にひたと吸ひ付き、
三度みたび四度よたび、人の滑すべつた跡も見える。
其時そのとき、両脚りやうあしを槓杆こうかんとし、
全身の力を集めて
一気に引上げた心は
鉄ならば火を噴いたであらう。
ああ、自みづから励はげむ者は
折折をりをり、これだけの事にも
その二つと無い命を賭かける。


繋縛

木は皆その自みづからの根で
地に縛られてゐる。
鳥は朝飛んでも
日暮には巣に返される。
人の身も同じこと、
自由な魂たましひを持ちながら
同じ区、同じ町、同じ番地、
同じ寝台ねだいに起き臥ふしする。


帰途

わたしは先生のお宅を出る。
先生の視線が私の背中にある、
わたしは其それを感じる、
葉巻の香りが私を追つて来る、
わたしは其それを感じる。
玄関から御門ごもんまでの
赤土の坂、並木道、
太陽と松の幹が太い縞しまを作つてゐる。
わたしはぱつと日傘を拡げて、
左の手に持ち直す、
頂いた紫陽花あぢさゐの重たい花束。
どこかで蝉せみが一つ鳴く。


拍子木

風ふく夜よなかに
夜よまはりの拍子木ひやうしぎの音、
唯ただ二片ふたひらの木なれど、
樫かしの木の堅くして、
年とし経へつつ、
手ずれ、膏あぶらじみ、
心しんから重たく、
二つ触れては澄み入いり、
嚠喨りうりやうたる拍子木ひやうしぎの音、
如何いかに夜よまはりの心も
みづから打ち
みづから聴きて楽しからん。


或夜あるよ

部屋ごとに点つけよ、
百燭しよくの光。
瓶かめごとに生いけよ、
ひなげしと薔薇ばらと。
慰むるためならず、
懲こらしむるためなり。
ここに一人ひとりの女、
讃ほむるを忘れ、
感謝を忘れ、
小ちさき事一つに
つと泣かまほしくなりぬ。


堀口大學さんの詩

三十を越えて未いまだ娶めとらぬ
詩人大學だいがく先生の前に
実在の恋人現れよ、
その詩を読む女は多けれど、
詩人の手より
誰たが家いへの女むすめか放たしめん、
マリイ・ロオランサンの扇。


城じやうが島しまの
岬のはて、
笹さゝしげり、
黄ばみて濡ぬれ、
その下に赤き切※(「涯のつくり」、第3水準1-14-82)きりぎし、
近き汀みぎはは瑠璃るり、
沖はコバルト、
ここに来て暫しばし坐すわれば
春のかぜ我にあつまる。


静浦

トンネルを又一つ出いでて
海の景色かはる、
心かはる。
静浦しづうらの口の津。
わが敬けいする龍三郎りゆうざぶらう[#ルビの「りゆうざぶらう」は底本では「りうざぶらう」]の君、
幾度いくたびか此この水を描かき給たまへり。
切りたる石は白く、
船に当る日は桃色、
磯いその路みちは観みつつ曲る、
猶なほしばし歩あゆまん。


牡丹

※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルサイユ宮きゆう[#ルビの「きゆう」は底本では「きう」]を過ぎしかど、
われは是これに勝まさる花を見ざりき。
牡丹ぼたんよ、
葉は地中海の桔梗色ききやういろと群青ぐんじやうとを盛り重ね、
花は印度いんどの太陽の赤光しやくくわうを懸けたり。
たとひ色相しきさうはすべて空むなしとも、
何なにか傷いたまん、
牡丹ぼたんを見つつある間あひだは
豊麗炎※えんねつ[#「執/れんが」、U+24360、11-上-10]の夢に我の浸ひたれば。


佳よきかな、美うつくしきかな、
矢を番つがへて、臂ひぢ張り、
引き絞りたる弓の形かたち。
射よ、射よ、子等こらよ、
鳥ならずして、射よ、
唯ただ彼かの空を。

的まとを思ふことなかれ、
子等こらと弓との共に作る
その形かたちこそいみじけれ、
唯ただ射よ、彼かの空を。


秋思

わが思ひ、この朝ぞ
秋に澄み、一つに集まる。
愛と、死と、芸術と、
玲瓏れいろうとして涼し。
目を上げて見れば
かの青空あをそらも我われなり、
その木立こだちも我われなり、
前なる狗子草ゑのころぐさも
涙しとどに溜ためて
やがて泣ける我われなり。


園中

蓼たで枯れて茎猶なほ紅あかし、
竹さへも秋に黄ばみぬ。
園そのの路みち草に隠れて、
草の露昼も乾かず。
咲き残るダリアの花の
泣く如ごとく花粉をこぼす。
童部わらはべよ、追ふことなかれ、
向日葵ひまはりの実を食はむ小鳥。


人知らず

翅つばさ無き身の悲しきかな、
常にありぬ、猶なほありぬ、
大空高く飛ぶ心。
我われは痩馬やせうま、黙黙もくもくと
重き荷を負ふ。人知らず、
人知らず、人知らず。


飛行船

外よその国より胆太きもぶとに
そつと降りたる飛行船、
夜よの間まに去れば跡も無し。
我はおろかな飛行船、
君が心を覗のぞくとて、
見あらはされた飛行船。


六むもと七なゝもと立つ柳、
冬は見えしか、一列の
廃墟はいきよに遺のこる柱廊ちゆうらう[#ルビの「ちゆうらう」は底本では「ちうらう」]と。
春の光に立つ柳、
今日けふこそ見ゆれ、美うつくしく、
これは翡翠ひすゐの殿とのづくり。


易者に

ものを知らざる易者かな、
我手わがてを見んと求むるは。
そなたに告げん、我がために
占ふことは遅れたり。
かの世のことは知らねども、
わがこの諸手もろで、この世にて、
上なき幸さちも、わざはひも、
取るべき限り満たされぬ。


甥をひなる者の歎くやう、
「二十はたち越ゆれど、詩を書かず、
踊をどりを知らず、琴弾かず、
これ若き日と云いふべきや、
富む家いへの子と云いふべきや。」
これを聞きたる若き叔母、
目の盲しひたれば、手探りに、
甥をひの手を執とり云いひにけり、
「いと好よし、今は家いへを出よ、
寂さびしき我に似るなかれ。」


花を見上げて

花を見上げて「悲し」とは
君なにごとを云いひたまふ。
嬉うれしき問ひよ、さればなり、
春の盛りの短くて、
早たそがれの青病クロシスが、
敏さとき感じにわななける
女の白き身の上に
毒の沁しむごと近づけば。


我家の四男

おもちやの熊くまを抱く時は
熊くまの兄とも思ふらし、
母に先だち行ゆく時は
母より路みちを知りげなり。
五歳いつゝに満たぬアウギユスト、
みづから恃たのむその性さがを
母はよしやと笑ゑみながら、
はた涙ぐむ、人知れず。


正月

紅梅こうばいと菜なの花を生いけた壺つぼ。
正月の卓テエブルに
格別かはつた飾りも無い。
せめて、こんな暇にと、
絵具箱を開あけて、
わたしは下手へたな写生をする。
紅梅こうばいと菜なの花を生いけた壺つぼ。


唯一ゆひいつの問とひ

唯ただ一つ、あなたに
お尋ねします。
あなたは、今、
民衆の中なかに在るのか、
民衆の外そとに在るのか、
そのお答こたへ次第で、
あなたと私とは
永劫えいごふ[#ルビの「えいごふ」は底本では「えいがふ」]、天と地と
別れてしまひます。


秋の朝

白きレエスを透とほす秋の光
木立こだちと芝生との反射、
外そとも内うちも
浅葱あさぎの色に明るし。
立ちて窓を開けば
木犀もくせいの香か冷ひややかに流れ入いる。

椅子いすの上に少しさし俯うつ向き、
己おのが手の静脈の
ほのかに青きを見詰めながら、
静かなり、今朝けさの心。


秋の心

歌はんとして躊躇ためらへり、
かかる事、昨日きのふ無かりき。
善よし悪あしを云いふも慵ものうし、
これもまた此この日の心。

我われは今ひともとの草、
つつましく濡ぬれて項垂うなだる[#「項垂る」は底本では「頂垂る」]。
悲しみを喜びにして
爽さわやかに大いなる秋。


今宵の心

何なんとして青く、
青く沈み入いる今宵こよひの心ぞ。
指に挟はさむ筆は鉄の重味、
書きさして見詰むる紙に
水の光流る。


我歌

求めたまふや、わが歌を。
かかる寂さびしきわが歌を。
それは昨日きのふの一ひとしづく、
底に残りし薔薇ばらの水。
それは千ちとせの一ひとかけら、
砂に埋うもれし青き玉たま。


憎む

憎む、
どの玉葱たまねぎも冷ひやゝかに
我を見詰めて緑なり。

憎む、
その皿の余りに白し、
寒し、痛し。

憎む、
如何いかなれば二方にはうの壁よ、
云いひ合せて耳を立つるぞ。


悲しければ

堪たへ難がたく悲しければ
我は云いひぬ「船に乗らん。」
乗りつれど猶なほさびしさに
また云いひぬ「月の出を待たん。」
海は閉ぢたる書物の如ごとく
呼び掛くること無く、
しばらくして、円まるき月
波に跳をどりつれば云いひぬ、
「長き竿さをの欲ほし、
かの珊瑚さんごの魚うをを釣る。」


緋目高ひめだか

鉢のなかの
活溌くわつぱつな緋目高ひめだかよ、
赤く焼けた釘くぎで
なぜ、そんなに無駄に
水に孔あなを開あけるのか。
気の毒な先覚者よ、
革命は水の上に無い。


涼夜りやうや

星が四方しはうの桟敷に
きらきらする。
今夜の月は支那しなの役者、
やさしい西施せいしに扮ふんして、
白い絹団扇うちはで顔を隠し、
ほがらかに秋を歌ふ。


卑怯

その路みちをずつと行ゆくと
死の海に落ち込むと教へられ、
中途で引返した私、
卑怯ひけふな利口者りこうものであつた私、
それ以来、私の前には
岐路えだみちと
迂路まはりみちとばかりが続いてゐる。


水楼にて

空には七月の太陽、
白い壁と白い河岸かし通りには
海から上のぼる帆柱の影。
どこかで鋼鉄の板を叩たゝく
船大工の槌つちがひびく。
私の肘ひぢをつく窓には
快い南風みなみかぜ。
窓の直すぐ下の潮は
ペパミントの酒さけになる。


批評

我を値踏ねぶみす、かの人ら。
げに買はるべき我ならめ、
かの太陽に値ねのあらば。


過ぎし日

先まづ天あまつ日を、次に薔薇ばら、
それに見とれて時経ときへしが、
疲れたる目を移さんと、
して漸やうやくに君を見き。


春風はるかぜ

そこの椿つばきに木隠こがくれて
何なにを覗のぞくや、春の風。
忍ぶとすれど、身じろぎに
赤い椿つばきの花が散る。

君の心を究きはめんと、
じつと黙もだしてある身にも
似るか、素直な春の風、
赤い笑ゑまひが先に立つ。


或人の扇に

扇を取れば舞をこそ、
筆をにぎれば歌をこそ、
胸ときめきて思ふなれ。
若き心はとこしへに
春を留とゞむるすべを知る。


桃の花

花屋の温室むろに、すくすくと
きさくな枝の桃が咲く。
覗のぞくことをば怠るな、
人の心も温室むろなれば。


杯さかづき

なみなみ注つげる杯さかづきを
眺めて眸まみの湿うるむとは、
如何いかに嬉うれしき心ぞや。
いざ干したまへ、猶なほ注つがん、
後のちなる酒は淡うすくとも、
君の知りたる酒なれば、
我の追ひ注つぐ酒なれば。


日和山ひよりやま

鳥羽の山より海見れば、
清き涙が頬ほを伝ふ。
人この故を問はであれ、
口に云いふとも尽きじかし。
知らんとならば共に見よ、
臥ふせる美神※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ニユスの肌のごと
すべて微笑ほゝゑむ入江をば。
志摩の国こそ希臘ギリシヤなれ。


春草しゆんさう

弥生やよひはじめの糸雨いとさめに
岡をかの草こそ青むなれ。
雪に跳をどりし若駒わかごまの
ひづめのあとの窪くぼみをも
円まろく埋うづめて青むなれ。


二月の雨

あれ、琵琶びはのおと、俄にはかにも
初心うぶな涙の琵琶びはのおと。
高い軒のきから、明方あけがたの
夢に流れる琵琶びはのおと。

二月の雨のしほらしや、
咲かぬ花をば恨めども、
ブリキの樋とひに身を隠し、
それと云いはずに琵琶びはを弾く。


秋の柳

夜更よふけた辻つじの薄墨の
痩やせた柳よ、糸やなぎ。
七日なぬかの月が細細ほそほそと
高い屋根から覗のぞけども、
なんぼ柳は寂さびしかろ。
物思ふ身も独りぼち。


冬のたそがれ

落葉おちばした木はYワイの字を
墨くろぐろと空に書き、
思ひ切つたる明星みやうじやうは
黄金きんの句点を一つ打つ。
薄く削つた白金プラチナの
神経質の粉雪よ、
瘧おこりを慄ふるふ電線に
ちくちく触さはる粉雪よ。


惜しき頸輪

我もやうやく街に立ち、
物乞こふために歌ふなり。
ああ、我歌わがうたを誰たれ知らん、
惜しき頸輪くびわの緒をを解きて
日毎ひごとに散らす珠たまぞとは。


思おもひは長し

思おもひは長し、尽き難がたし、
歌は何いづれも断章フラグマン。
たとひ万年生きばとて
飽くこと知らぬ我なれば、
恋の初めのここちせん。


羽はねの斑まだらは刺青いれずみか、
短気なやうな蝶てふが来る。
今日けふの入日いりひの悲しさよ。
思ひなしかは知らねども、
短気なやうな蝶てふが来る。


欲望

彼かれも取りたし、其それも欲ほし、
飽かぬ心の止やみ難がたし。

時は短し、身は一つ、
多く取らんは難かたからめ、
中に極めて優れしを
今は得んとぞ願ふなる。

されば近きをさし措おきて、
及ばぬ方かたへ手を伸ぶる。


小鳥の巣
   
小序。詩を作り終りて常に感ずることは、我国の詩に押韻の体なきために、句の独立性の確実に対する不安なり。散文の横書にあらずやと云ふ非難は、放縦なる自由詩の何れにも伴ふが如し。この欠点を救ひて押韻の新体を試みる風の起らんこと、我が年久しき願ひなり。みづから興に触れて折折に試みたる拙きものより、次に其一部を抄せんとす。押韻の法は唐以前の古詩、または欧洲の詩を参照し、主として内心の自律的発展に本づきながら、多少の推敲を加へたり。コンソナンツを避けざるは仏蘭西近代の詩に同じ。毎句に同韻を押し、または隔句に同語を繰返して韻に押すは漢土の古詩に例多し。(一九二八年春)

    ×
砂を掘つたら血が噴いて、
入れた泥鰌どぢやうが竜りようになる。
ここで暫しばらく絶句して、
序文に凝こつて夜よが明けて、
覚めた夢から針が降る。
    ×
時に先だち歌ふ人、
しひたげられて光る人、
豚に黄金こがねをくれる人、
にがい笑わらひを隠す人、
いつも一人ひとりで帰る人。
    ×
赤い桜をそそのかし、
風の癖くせなるしのび足、
ひとりで聞けば恋慕れんぼらし。
雨はもとより春の糸、
窓の柳も春の糸。
    ×
見る夢ならば大きかれ、
美うつくしけれど遠き夢、
険けはしけれども近き夢。
われは前をば選びつれ、
わかき仲間は後のちの夢。
    ×
すべてが消える、武蔵野の
砂を吹きまく風の中、
人も荷馬車も風の中。
すべてが消える、金きんの輪の
太陽までが風の中。
    ×
花を抱きつつをののきぬ、
花はこころに被かぶさりぬ。
論じたまふな、善よき、悪あしき、
何なにか此この世に分わかつべき。
花と我とはかがやきぬ。
    ×
凡骨ぼんこつさんの大事がる
薄い細身の鉄の鑿のみ。
髪に触れても刄はの欠ける
もろい鑿のみゆゑ大事がる。
わたしも同じもろい鑿のみ。
    ×
林檎りんごが腐る、香かを放つ、
冷たい香かゆゑ堪たへられぬ。
林檎りんごが腐る、人は死ぬ、
最後の文ふみが人を打つ、
わたしは君を悲かなしまぬ。
    ×
いつもわたしのむらごころ、
真紅しんくの薔薇ばらを摘むこころ、
雪を素足で踏むこころ、
青い沖をば行ゆくこころ、
切れた絃いとをばつぐこころ。
    ×
韻がひびかぬ、死んでゐる、
それで頻しきりに書いてみる。
皆さんの愚痴、おのが無智、
誰たれが覗のぞいた垣の中うち、
戸は立てられぬ人の口。
    ×
泥の郊外、雨が降る、
濡ぬれた竈かまどに木がいぶる、
踏切番が旗を振る、
ぼうぼうとした草の中
屑屋くづやも買はぬ人の故ふる。
    ×
指のさはりのやはらかな
青い煙の匂にほやかな、
好きな細巻、名はDIANAデイアナ。
命の闇やみに火をつけて、
光る刹那せつなの夢の華。
    ×
青い空から鳥がくる、
野辺のべのけしきは既に春、
細い枝にも花がある。
遠い高嶺たかねと我がこころ
すこしの雪がまだ残る。
    ×
槌つちを上げる手、鍬くは打つ手、
扇を持つ手、筆とる手、
炭をつかむ手、児こを抱く手、
かげに隠れて唯ただひとつ
見えぬは天をゆびさす手。
    ×
高い木末こずゑに葉が落ちて
あらはに見える、小鳥の巣。
鳥は飛び去り、冬が来て、
風が吹きまく砂つぶて。
ひろい野中のなかの小鳥の巣。
    ×
人は黒黒くろぐろぬり消せど
すかして見える底の金きん。
時の言葉は隔へだつれど
冴さゆるは歌の金きんの韻。
ままよ、暫しばらく隅すみに居ん。
    ×
いつか大きくなるままに
子らは寝に来こず、母の側そば。
母はまだまだ云いひたきに、
金きんのお日様、唖おしの驢馬ろば、
おとぎ噺ばなしが云いひたきに。
    ×
ふくろふがなく、宵になく、
山の法師がつれてなく。
わたしは泣かない気でゐれど、
からりと晴れた今朝けさの窓
あまりに青い空に泣く。
    ×
おち葉した木が空を打ち、
枝も小枝も腕を張る。
ほんにどの木も冬に勝ち、
しかと大地たいちに立つてゐる。
女ごころはいぢけがち。
    ×
玉葱たまねぎの香かを嗅かがせても
青い蛙かへるはむかんかく。
裂けた心を目にしても
廿にじふ世紀は横を向く、
太陽までがすまし行ゆく。
    ×
話は春の雪の沙汰さた、
しろい孔雀くじやくのそだてかた、
巴里パリイの夢をもたらした
荻野をぎの綾子あやこの宵の唄うた、
我子わがこがつくる薔薇ばらの畑はた。
    ×
誰たれも彼方かなたへ行ゆきたがる、
明るい道へ目を見張る、
おそらく其処そこに春がある。
なぜか行ゆくほどその道が
今日けふのわたしに遠ざかる。
    ×
青い小鳥のひかる羽はね、
わかい小鳥の躍る胸、
遠い海をば渡りかね、[#「渡りかね、」は底本では「渡りかね、」」]
泣いてゐるとは誰だれが知ろ、
まだ薄雪の消えぬ峰。
    ×
つうちで象をつうくつた[#「つうくつた」は底本では「つくつた」]、
大きな象が目に立つた、
象の祭がさあかえた、
象が俄にはかに吼ほえだした、
吼ほえたら象がこおわれた。
    ×
まぜ合はすのは目ぶんりやう、
その振るときのたのしさう。
かつくてえるのことでない、
わたしの知つたことでない、
若い手で振る無産党。
    ×
鳥を追ふとて安壽姫あんじゆひめ、
母に逢あひたや、ほおやらほ。
わたしも逢あひたや、猶なほひと目、
載せて帰らぬ遠い夢、
どこにゐるやら、真赤まつかな帆。
    ×
鳥屋が百舌もずを飼はぬこと、
そのひと声に百鳥ももどりが
おそれて唖おしに変ること、
それに加へて、あの人が
なぜか折折をりをりだまること。
    ×
逆さかしに植ゑた戯れに
あかい芽をふく杖つゑがある。
指を触れたか触れぬ間まに
石から虹にじが舞ひあがる。
寝てゐた豹へうの目が光る。
    ×
われにつれなき今日けふの時、
花を摘み摘み行ゆき去りぬ。
唯ただやさしきは明日あすの時、
われに著きせんと、光る衣きぬ
千ちとせをかけて手に編みぬ。
    ×
がらすを通し雪が積む、
こころの桟さんに雪が積む、
透すいて見えるは枯れすすき、
うすい紅梅こうばい、やぶつばき、
青いかなしい雪が積む。
    ×
はやりを追へば切りがない、
合言葉をばけいべつせい。
よくも揃そろうた赤インキ、
ろしあまがひの左書ひだりがき、
先まづは二三日にさにちあたらしい。
    ×
うぐひす、そなたも雪の中、
うぐひす、そなたも悲しいか。
春の寒さに音ねが細る、
こころ余れど身が凍こほる。
うぐひす、そなたも雪の中。
    ×
あまりに明るい、奥までも
開あけはなちたるがらんだう、
つばめの出入でいりによけれども
ないしよに逢あふになんとせう、
闇夜やみよも風が身に沁しまう。
    ×
摘め、摘め、誰たれも春の薔薇ばら、
今日けふの盛りの紅あかい薔薇ばら、
今日けふに倦あいたら明日あすの薔薇ばら、
とがるつぼみの青い薔薇ばら、
摘め、摘め、誰たれも春の薔薇ばら。
    ×
己おのが痛さを知らぬ虫、
折れた脚あしをも食はむであろ。
人の言葉を持たぬ牛、
云いはずに死ぬることであろ。
ああ虫で無し、牛でなし。
    ×
夢にをりをり蛇を斬きる、
蛇に巻かれて我が力
為しようこと無しに蛇を斬きる。
それも苦しい夢か知ら、
人が心で人を斬きる。
    ×
身を云いふに過ぐ、外ほかを見よ、
黙黙もくもくとして我等あり、
我が痛さより痛きなり。
他たを見るに過ぐ、目を閉ぢよ、
乏しきものは己おのれなり。
    ×
論ずるをんな糸採とらず、
みちびく男たがやさず、
大学を出ていと賢さかし、
言葉は多し、手は白し、
之これを耻はぢずば何なにを耻はづ。
    ×
人に哀れを乞こひて後のち、
涙を流す我が命。
うら耻はづかしと知りながら、
すべて貧しい身すぎから。
ああ我われとても人の中うち。
    ×
浪なみのひかりか、月の出か、
寝覚ねざめを照てらす、窓の中。
遠いところで鴨かもが啼なき、
心に透とほる、海の秋。
宿は岬の松の岡をか。
    ×
十国じつこく峠、名を聞いて
高い所に来たと知る。
世よ離はなれたれば、人を見て
路みちを譲らぬ牛もある。
海に真赤まつかな日が落ちる。
    ×
すべての人を思ふより、
唯ただ一人ひとりには背そむくなり。
いと寂さびしきも我が心、
いと楽しきも我が心。
すべての人を思ふより。
    ×
雲雀ひばりは揚がる、麦生むぎふから。
わたしの歌は涙から。
空の雲雀ひばりもさびしかろ、
はてなく青いあの虚うつろ、
ともに已やまれぬ歌ながら。
    ×
鏡の間まより出いづるとき、
今朝けさの心ぞやはらかき。
鏡の間まには塵ちりも無し、
あとに静かに映れかし、
鸚哥インコの色の紅べにつばき。
    ×
そこにありしは唯ただ二日、
十和田の水が其その秋の
呼吸いきを猶なほする、夢の中。
痩やせて此頃このごろおもざしの
青ざめゆくも水ゆゑか。
    ×
つと休らへば素直なり、
藤ふぢのもとなる低き椅子いす。
花を透とほして日のひかり
うす紫の陰影かげを着きす。
物みな今日けふは身に与くみす。
    ×
海の颶風あらしは遠慮無し、
船を吹くこと矢の如ごとし。
わたしの船の上がるとき、
かなたの船は横を向き、
つひに別れて西ひがし。
    ×
笛にして吹く麦の茎、
よくなる時は裂ける時。
恋の脆もろさも麦の笛、
思ひつめたる心ゆゑ
よく鳴る時は裂ける時。
    ×
地獄の底の火に触れた、
薔薇ばらに埋うづまる床とこに寝た、
金きんの獅子ししにも乗り馴なれた、
天てんに中ちうする日も飽あいた、
己おのが歌にも聞き恍ほれた。
    ×
春風はるかぜの把とる彩あやの筆
すべての物の上を撫なで、
光と色に尽つくす派手。
ことに優れてめでたきは
牡丹ぼたんの花と人の袖そで。
    ×
涙に濡ぬれて火が燃えぬ。
今日けふの言葉に気息いきがせぬ、
絵筆を把とれど色が出ぬ、
わたしの窓に鳥が来こぬ、
空には白い月が死ぬ。
    ×
あの白鳥はくてうも近く来る、
すべての花も目を見はる、
青い柳も手を伸べる。
君を迎へて春の園その
路みちの砂にも歌がある。
    ×
大空おほそらならば指ささん、
立つ波ならば濡ぬれてみん、
咲く花ならば手に摘まん。
心ばかりは形無かたちなし、
偽りとても如何いかにせん。
    ×
人わが門かどを乗りて行ゆく、
やがて消え去る、森の奥。
今日けふも南の風が吹く。
馬に乗る身は厭いとはぬか、
野を白くする砂の中。
    ×
鳥の心を君知るや、
巣は雨ふりて冷ゆるとも
雛ひなを素直に育てばや、
育てし雛ひなを吹く風も
塵ちりも無き日に放たばや。
    ×
牡丹ぼたんのうへに牡丹ぼたんちり、
真赤まつかに燃えて重なれば、
いよいよ青し、庭の芝。
ああ散ることも光なり、
かくの如ごとくに派手なれば。[#「なれば。」は底本では「なれば、」]
    ×
閨ねやにて聞けば[#「聞けば」は底本では「聞けは」]朝の雨
半なかばは現実うつゝ、なかば夢。
やはらかに降る、花に降る、
わが髪に降る、草に降る、
うす桃色の糸の雨。
    ×
赤い椿つばきの散る軒のきに
埃ほこりのつもる臼うすと杵きね、
莚むしろに干すは何なんの種。
少し離れて垣かき越こしに
帆柱ばかり見える船。
    ×
三みたび曲つて上のぼる路みち、
曲り目ごとに木立こだちより
青い入江いりえの見える路みち、
椿つばきに歌ふ山の鳥
花踏みちらす苔こけの路みち。

 

夢と現実
   

明日

明日あすよ、明日あすよ、
そなたはわたしの前にあつて
まだ踏まぬ未来の
不可思議の路みちである。
どんなに苦しい日にも、わたしは
そなたに憬こがれて励はげみ、
どんなに楽たのしい日にも、わたしは
そなたを望んで踊りあがる。

明日あすよ、明日あすよ、
死と飢うゑとに追はれて歩くわたしは
たびたびそなたに失望する。
そなたがやがて平凡な今日けふに変り、
灰色をした昨日きのふになつてゆくのを
いつも、いつもわたしは恨んで居る。
そなたこそ人を釣る好よい香にほひの餌ゑさだ、
光に似た煙だと咀のろふことさへある。

けれど、わたしはそなたを頼んで、
祭の前夜の子供のやうに
「明日あすよ、明日あすよ」と歌ふ。
わたしの前には
まだまだ新しい無限の明日あすがある。
よしや、そなたが涙を、悔くいを、愛を、
名を、歓楽を、何なにを持つて来ようとも[#「来ようとも」は底本では「来やうとも」]、
そなたこそ今日けふのわたしを引く力である。


肖像

わが敬けいする画家よ、
願ねがはくは、我がために、
一枚の像を描ゑがきたまへ。

バツクには唯ただ深夜の空、
無智と死と疑惑との色なる黒に、
深き悲痛の脂色やにいろを交ぜたまへ。

髪みだせる裸の女、
そは青ざめし肉塊とのみや見えん。
じつと身ゆるぎもせず坐すわりて、
尽きぬ涙を手に受けつつ傾く。
前なる目に見えぬ無底むていの淵ふちを覗のぞく姿勢かたち。

目は疲れてあり、
泣く前に、余りに現実を見たるため。
口は堅く緊しまりぬ、
未いまだ一ひとたびも言はず歌はざる其それの如ごとく。

わが敬けいする画家よ、
若もし此この像の女に、
明日あすと云いふ日のありと知らば、
トワルの何いづれかに黄金きんの目の光る一羽いちはの梟ふくろふを添へ給たまへ。
されど、そは君が意に任せん、わが知らぬことなり。

さて画家よ、彩料さいれうには
わが好むパステルを用ひたまへ、
剥落はくらくと褪色たいしよくとは
恐らく此この像の女の運命なるべければ。


読後

晶子、ヅアラツストラを一日一夜いちにちいちやに読み終り、
その暁あかつき、ほつれし髪を掻かき上げて呟つぶやきぬ、
「辞ことばの過ぎたるかな」と。
しかも、晶子の動悸どうきは羅うすものを透とほして慄ふるへ、
その全身の汗は産さんの夜よの如ごとくなりき。

さて十日とをか経へたり。
晶子は青ざめて胃弱の人の如ごとく、
この十日とをか、良人をつとと多く語らず、我子等わがこらを抱いだかず。
晶子の幻まぼろしに見るは、ヅアラツストラの
黒き巨像の上げたる右の手なり。


紅い夢

茜あかねと云いふ草の葉を搾しぼれば
臙脂べにはいつでも採とれるとばかり
わたしは今日けふまで思つてゐた。
鉱物からも、虫からも
立派な臙脂べには採とれるのに。
そんな事はどうでもよい、
わたしは大事の大事を忘れてた、
夢からも、
わたしのよく見る夢からも、
こんなに真赤まつかな臙脂べにの採とれるのを。


アウギユスト

アウギユスト、アウギユスト、
わたしの五歳いつつになるアウギユスト、
おまへこそは「真実」の典型。
おまへが両手を拡げて
自然にする身振の一つでも、
わたしは、どうして、
わたしの言葉に訳すことが出来よう。
わたしは唯ただ
ほれぼれと其それを眺めるだけですよ、
喜んで目を見張るだけですよ。
アウギユスト、アウギユスト、
母の粗末な芸術なんかが
ああ、何なんにならう。
私はおまへに由よつて知ることが出来た。
真実の彫刻を、
真実の歌を、
真実の音楽を、
そして真実の愛を。
おまへは一瞬ごとに
神変しんぺん不思議を示し、
玲瓏れいろう円転として踊り廻る。


産室うぶやの夜明よあけ

硝子ガラスの外そとのあけぼのは
青白あおしろき繭まゆのここち……
今一ひとすぢ仄ほのかに
音せぬ枝珊瑚えださんごの光を引きて、
わが産室うぶやの壁を匍はふものあり。
と見れば、嬉うれし、
初冬はつふゆのかよわなる
日の蝶てふの出いづるなり。[#「出づるなり。」は底本では「出づるなり、」]

ここに在るは、
八やたび死より逃れて還かへれる女――
青ざめし女われと、
生れて五日いつか目なる
我が藪椿やぶつばきの堅き蕾つぼみなす娘エレンヌと
一瓶いちびんの薔薇ばらと、
さて初恋の如ごとく含羞はにかめる
うす桃色の日の蝶てふと……
静かに清清すがすがしき曙あけぼのかな。
尊たふとくなつかしき日よ、われは今、
戦ひに傷つきたる者の如ごとく
疲れて低く横たはりぬ。
されど、わが新しき感激は
拝日はいにち教徒の信の如ごとし、
わがさしのぶる諸手もろでを受けよ、
日よ、曙あけぼのの女王ぢよわうよ。

日よ、君にも夜よると冬の悩みあり、
千万年の昔より幾億たび、
死の苦に堪たへて若返る
天あまつ焔の力の雄雄ををしきかな。
われは猶なほ君に従はん、
わが生きて返れるは纔わずかに八やたびのみ
纔わづかに八やたび絶叫と、血と、
死の闇やみとを超えしのみ。


颱風

ああ颱風、
初秋はつあきの野を越えて
都を襲ふ颱風、
汝なんぢこそ逞たくましき大馬おほうまの群むれなれ。

黄銅くわうどうの背せな、
鉄の脚あし、黄金きんの蹄ひづめ、
眼に遠き太陽を掛け、
鬣たてがみに銀を散らしぬ。

火の鼻息はないきに
水晶の雨を吹き、
暴あらく斜めに、
駆歩くほす、駆歩くほす。

ああ抑おさへがたき
天てんの大馬おほうまの群むれよ、
怒いかれるや、
戯れて遊ぶや。

大樹だいじゆは逃のがれんとして、
地中の足を挙げ、
骨を挫くじき、手を折る。
空には飛ぶ鳥も無し。

人は怖おそれて戸を鎖させど、
世を裂く蹄ひづめの音に
屋根は崩れ、
家いへは船よりも揺れぬ。

ああ颱風、
人は汝なんぢによりて、
今こそ覚さむれ、
気不精きぶしやうと沮喪そさうとより。

こころよきかな、全身は
巨大なる象牙ざうげの
喇叭らつぱのここちして、
颱風と共に嘶いなゝく。


冬が始まる

おお十一月、
冬が始まる。
冬よ、冬よ、
わたしはそなたを讃たゝへる。
弱い者と
怠なまけ者とには
もとより辛つらい季節。
しかし、四季の中に、
どうしてそなたを欠くことが出来よう。
健すこやかな者と
勇敢な者とが
試ためされる季節、
否いな、みづから試ためす季節。
おお冬よ、
そなたの灰色の空は
人を圧あつしる。
けれども、常に心の曇らぬ人は
その空の陰鬱いんうつに克かつて、
そなたの贈る
沍寒ごかん[#ルビの「ごかん」は底本では「ごうかん」]と、霜と、
雪と、北風とのなかに、
常に晴やかな太陽を望み、
春の香かを嗅かぎ、
夏の光を感じることが出来る。
青春を引立てる季節、
ほんたうに血を流す
活動の季節、
意力を鞭むち打つ季節、
幻想を醗酵する季節、
冬よ、そなたの前に、
一人ひとりの厭人主義者ミザントロオプも無ければ、
一人ひとりの卑怯ひけふ者も無い、
人は皆、十二の偉勲を建てた
ヘルクレスの子孫のやうに見える。

わたしは更に冬を讃たゝへる。
まあ何なんと云いふ
優しい、なつかしい他たの一面を
冬よ、そなたの持つてゐることぞ。
その永い、しめやかな夜よる。……
榾ほだを焚たく田舎の囲炉裏いろり……
都会のサロンの煖炉ストオブ……
おお家庭の季節、夜会やくわいの季節
会話の、読書の、
音楽の、劇の、踊をどりの、
愛の、鑑賞の、哲学の季節、
乳呑児ちのみごのために
罎びんの牛乳の腐らぬ季節、
小ちさいセエヴルの杯さかづきで
夜会服ロオブデコルテの
貴女きぢよも飲むリキユルの季節。
とり分わき日本では
寒念仏かんねんぶつの、
臘八らふはち坐禅の、
夜業の、寒稽古かんげいこの、
砧きぬたの、香かうの、
茶の湯の季節、
紫の二枚襲がさねに
唐織からおりの帯の落着く季節、
梅もどきの、
寒菊かんぎくの、
茶の花の、
寒牡丹かんぼたんの季節、
寺寺てらでらの鐘の冴さえる季節、
おお厳粛な一面の裏面うらに、
心憎きまで、
物の哀れさを知りぬいた冬よ、
楽たのしんで溺おぼれぬ季節、
感性と理性との調和した季節。
そなたは万物の無尽蔵、
ああ、わたしは冬の不思議を直視した。
嬉うれしや、今、
その冬が始まる、始まる。

収穫とりいれの後のちの田に
落穂おちほを拾ふ女、
日の出前に霜を踏んで
工場こうばに急ぐ男、
兄弟よ、とにかく私達は働かう、
一層働かう、
冬の日の汗する快さは
わたし達無産者の景福けいふくである。
おお十一月、
冬が始まる。


木下杢太郎さんの顔

友の額ひたひのうへに
刷毛はけの硬さもて逆立さかだつ黒髪、
その先すこしく渦巻き、
中に人差指ほど
過あやまちて絵具の――
ブラン・ダルジヤンの附つきしかと……
また見直せば
遠山とほやまの襞ひだに
雪一筋ひとすぢ降れるかと。

然しかれども
友は童顔、
いつまでも若き日の如ごとく
物言へば頬ほの染そみ、
目は微笑ほゝゑみて、
いつまでも童顔、
年とし四十しじふとなり給たまへども。

年とし四十しじふとなり給たまへども、
若き人、
みづみづしき人、
初秋はつあきの陽光を全身に受けて、
人生の真紅しんくの木この実
そのものと見ゆる人。

友は何処いづこに行いく、
猶なほも猶なほも高きへ、広きへ、
胸張りて、踏みしめて行いく。
われはその足音に聞き入いり、
その行方ゆくへを見守る。
科学者にして詩人、
他たに幾倍する友の欲の
重おもりかに華やげるかな。

同じ世に生れて
相知れること二十年、
友の見る世界の片端に
我も曾かつて触れにき。
さは云いへど、今はわれ
今はわれ漸やうやくに寂さびし。
譬たとふれば我心わがこゝろ
薄墨いろの桜、
唯ただ時として
雛罌粟ひなげしの夢を見るのみ。

羨うらやまし、
友は童顔、
いつまでも童顔、
今日けふ逢あへば、いみじき
気高けだかささへも添ひ給たまへる。


母ごころ

金糸雀カナリアの雛ひなを飼ふよりは
我子わがこを飼ふぞおもしろき。
雛ひなの初毛うぶげはみすぼらし、
おぼつかなしや、足取あしどりも。
盥たらひのなかに湯浴ゆあみする
よき肉づきの生みの児この
白き裸を見るときは、
母の心を引立たす。
手足も、胴も、面おもざしも
汝なを飼ふ親に似たるこそ、
かの異類なる金糸雀カナリヤの
雛ひなにまさりて親しけれ。
かくて、いつしか親の如ごと、
物を思はれ、物云いはん。
詩人、琴弾ことひき、医師、学者、
王、将軍にならずとも、
大船おほふねの火夫くわふ、いさなとり、
乃至ないし活字を拾ふとも、
我は我子わがこをはぐくまん、
金糸雀カナリヤの雛ひなを飼ふよりは。
(一九〇一年作)


我子等よ

いとしき、いとしき我子等わがこらよ、
世に生れしは禍わざはひか、
誰たれか之これを「否いな」と云いはん。

されど、また君達は知れかし、
之これがために、我等――親も、子も――
一切の因襲を超えて、
自由と愛に生き得うることを、
みづからの力に由よりて、
新らしき世界を始め得うることを。

いとしき、いとしき我子等わがこらよ、
世に生れしは幸ひか、
誰たれか之これを「否いな」と云いはん。
いとしき、いとしき我子等わがこらよ、
今、君達のために、
この母は告げん。

君達は知れかし、
我等わがらの家いへに誇るべき祖先なきを、
私有する一尺の土地も無きを、
遊惰いうだの日を送る財さいも無きを。
君達はまた知れかし、
我等――親も子も――
行手ゆくてには悲痛の森、
寂寞せきばくの路みち、
その避けがたきことを。


親として

人の身にして己おのが児こを
愛することは天地あめつちの
成しのままなる心なり。
けものも、鳥も、物云いはぬ
木さへ、草さへ、おのづから
雛ひなと種たねとをはぐくみぬ。

児等こらに食はません欲なくば
人はおほかた怠おこたらん。
児等こらの栄えを思はずば
人は其その身を慎まじ。
児この美うつくしさ素直さに
すべての親は浄きよまりぬ。

さても悲しや、今の世は
働く能のうを持ちながら、
職に離るる親多し。
いとしき心余れども
児こを養はんこと難がたし。
如何いかにすべきぞ、人に問ふ。


正月

正月を、わたしは
元日ぐわんじつから月末つきずゑまで
大なまけになまけてゐる。
勿論もちろん遊ぶことは骨が折れぬ、
けれど、外ほかから思ふほど
決して、決して、おもしろくはない。
わたしはあの鼠色ねずみいろの雲だ、
晴れた空に
重苦しく停とゞまつて、
陰鬱いんうつな心を見せて居る雲だ。
わたしは断たえず動きたい、
何なにかをしたい、
さうでなければ、この家いへの
大勢が皆飢ゑねばならぬ。
わたしはいらいらする。
それでゐて何なにも手に附つかない、
人知れず廻る
なまけぐせの毒酒どくしゆに
ああ、わたしは中あてられた。
今日けふこそは何なにかしようと思ふばかりで、
わたしは毎日
つくねんと原稿紙しを見詰めてゐる。
もう、わたしの上に
春の日は射ささないのか、
春の鳥は啼なかないのか。
わたしの内うちの火は消えたか。
あのじつと涙を呑のむやうな
鼠色ねずみいろの雲よ、
そなたも泣きたかろ、泣きたかろ。
正月は唯ただ徒いたづらに経たつて行ゆく。


大きな黒い手

おお、寒い風が吹く。
皆さん、
もう夜明よあけ前ですよ。
お互たがひに大切なことは
「気を附つけ」の一語いちご。
まだ見えて居ます、
われわれの上に
大きな黒い手。

唯ただ片手ながら、
空に聳そびえて動かず、
その指は
じつと「死」を[#「「死」を」は底本では「「死」と」]指してゐます。
石で圧おされたやうに
我我の呼吸いきは苦しい。

けれど、皆さん、
我我は目が覚めてゐます。
今こそはつきりとした心で
見ることが出来ます、
太陽の在所ありかを。
また知ることが出来ます、
華やかな朝の近づくことを。

大きな黒い手、
それは弥いやが上に黒い。
その指は猶なほ
じつと「死」を指して居ます。
われわれの上に。


絵師よ

わが絵師よ、
わが像を描かき給たまはんとならば、
願ねがはくば、ただ写したまへ、
わが瞳ひとみのみを、ただ一つ。

宇宙の中心が
太陽の火にある如ごとく、
われを端的に語る星は、
瞳ひとみにこそあれ。

おお、愛欲の焔ほのほ、
陶酔の虹にじ、
直観の電光、
芸術本能の噴水。

わが絵師よ、
紺青こんじやうをもて塗り潰つぶしたる布に、
ただ一つ、写したまへ、
わが金色こんじきの瞳ひとみを。


戦争

大錯誤おほまちがひの時が来た、
赤い恐怖おそれの時が来た、
野蛮が濶ひろい羽はねを伸し、
文明人が一斉に
食人族しよくじんぞくの仮面めんを被きる。

ひとり世界を敵とする、
日耳曼人ゲルマンじんの大胆さ、
健気けなげさ、しかし此様このやうな
悪の力の偏重へんちようが
調節されずに已やまれよか。

いまは戦ふ時である、
戦嫌いくさぎらひのわたしさへ
今日けふ此頃このごろは気が昂あがる。
世界の霊と身と骨が
一度に呻うめく時が来た。

大陣痛だいぢんつうの時が来た、
生みの悩みの時が来た。
荒い血汐ちしほの洗礼で、
世界は更に新しい
知らぬ命を生むであろ。

其それがすべての人類に
真の平和を持ち来きたす
精神アアムでなくて何なんであろ。
どんな犠牲を払う[#「払う」はママ]ても
いまは戦ふ時である。


歌はどうして作る

歌はどうして作る。
じつと観み、
じつと愛し、
じつと抱きしめて作る。
何なにを。
「真実」を。

「真実」は何処どこに在る。
最も近くに在る。
いつも自分と一所いつしよに、
この目の観みる下もと、
この心の愛する前、
わが両手の中に。

「真実」は
美うつくしい人魚、
跳はね且かつ踊る、
ぴちぴちと踊る。
わが両手の中で、
わが感激の涙に濡ぬれながら。

疑ふ人は来て見よ、
わが両手の中の人魚は
自然の海を出たまま、
一つ一つの鱗うろこが
大理石おほりせき[#ルビの「おほりせき」はママ]の純白じゆんぱくのうへに
薔薇ばらの花の反射を持つてゐる。


新しい人人

みんな何なにかを持つてゐる、
みんな何なにかを持つてゐる。
後ろから来る女の一列いちれつ、
みんな何なにかを持つてゐる。

一人ひとりは右の手の上に
小さな青玉せいぎよくの宝塔。
一人ひとりは薔薇ばらと睡蓮すいれんの
ふくいくと香る花束。

一人ひとりは左の腋わきに
革表紙かはべうしの金字きんじの書物。
一人ひとりは肩の上に地球儀。
一人ひとりは両手に大きな竪琴たてごと。

わたしには何なんにも無い
わたしには何なんにも無い。
身一つで踊るより外ほかに
わたしには何なんにも無い。


黒猫

押しやれども、
またしても膝ひざに上のぼる黒猫。

生きた天鵝絨びろうどよ、
憎からぬ黒猫の手ざはり。

ねむたげな黒猫の目、
その奥から射る野性の力。

どうした機会はずみ[#ルビの「はずみ」は底本では「はみ」]やら、をりをり、
緑金りよくこんに光るわが膝ひざの黒猫。


曲馬の馬

競馬の馬の打勝たんとする鋭さならで
曲馬きよくばの馬は我を棄すてし
服従の素速すばやき気転なり。

曲馬きよくばの馬の痩やせたるは、
競馬の馬の逞たくましく美うつくしき優形やさがたと異なりぬ。
常に飢ひもじきが為ため。

競馬の馬もいと稀まれに鞭むちを受く。
されど寧むしろ求めて鞭むち打たれ、その刺戟に跳をどる。
曲馬きよくばの馬の爛たゞれて癒いゆる間まなき打傷うちきずと何いづれぞ。

競馬の馬と、曲馬きよくばの馬と、
偶たまたま市いちの大通おほどほりに行ゆき会ひし時、
競馬の馬はその同族の堕落を見て涙ぐみぬ。

曲馬きよくばの馬は泣くべき暇いとまも無し、
慳貪けんどんなる黒奴くろんぼの曲馬きよくば師は
広告のため、楽隊の囃はやしに伴つれて彼を歩あゆませぬ……


夜の声

手風琴てふうきんが鳴る……
そんなに、そんなに、
驢馬ろばが啼なくやうな、
鉄葉ブリキが慄ふるへるやうな、
歯が浮くやうな、
厭いやな手風琴てふうきんを鳴らさないで下さい。

鳴らさないで下さい、
そんなに仰山ぎやうさんな手風琴てふうきんを、
近所合壁がつぺきから邪慳じやけんに。
あれ、柱の割目われめにも、
電灯の球たまの中にも、
天井にも、卓の抽出ひきだしにも、
手風琴てふうきんの波が流れ込む。
だれた手風琴てふうきん、
しよざいなさの手風琴てふうきん、
しみつたれた手風琴てふうきん、
からさわぎの手風琴てふうきん、
鼻風邪を引いた手風琴てふうきん、
中風症よい/\の手風琴てふうきん……

いろんな手風琴てふうきんを鳴らさないで下さい、
わたしには此この夜中よなかに、
じつと耳を澄まして
聞かねばならぬ声がある……[#「……」は底本では「‥‥」]
聞きたい聞きたい声がある……
遠い星あかりのやうな声、
金髪の一筋ひとすぢのやうな声、
水晶質の細い声……

手風琴てふうきんを鳴らさないで下さい。
わたしに還かへらうとするあの幽かすかな声が
乱される……紛れる……
途切れる……掻かき消される……
ああどうしよう……また逃げて行つてしまつた……

「手風琴てふうきんを鳴らすな」と
思ひ切つて怒鳴どなつて見たが、
わたしにはもう声が無い、
有るのは真剣な態度ゼストばかり……
手風琴てふうきんが鳴る……煩うるさく鳴る……
柱も、電灯も、
天井も、卓も、瓶かめの花も、
手風琴てふうきんに合せて踊つてゐる……

さうだ、こんな処ところに待つて居ず
駆け出さう、あの闇やみの方へ。
……さて、わたしの声が彷徨さまよつてゐるのは
森か、荒野あらのか、海のはてか……
ああ、どなたでも教へて下さい、
わたしの大事な貴たふとい声の在処ありかを。


自問自答

「我」とは何なにか、斯かく問へば
物みな急に後込しりごみし、
あたりは白く静まりぬ。
いとよし、答ふる声なくば
みづから内うちに事こと問はん。

「我」とは何なにか、斯かく問へば
愛あい、憎ぞう、喜き、怒どと名のりつつ
四人よたりの女あらはれぬ。
また智ちと信しんと名のりつつ
二人ふたりの男あらはれぬ。

われは其等それらをうち眺め、
しばらくありてつぶやきぬ。
「心の中のもののけよ、
そは皆われに映りたる
世と他人との姿なり。

知らんとするは、ほだされず
模まねず、雑まじらず、従はぬ、
初生うぶ本来の我なるを、
消えよ」と云いへば、諸声もろごゑに
泣き、憤いきどほり、罵のゝしりぬ。

今こそわれは冷ひやゝかに
いとよく我を見得みうるなれ。
「我」とは何なにか、答へぬも
まことあはれや、唖おしにして、
踊をどりを知れる肉なれば。


我が泣く日

たそがれどきか、明方あけがたか、
わたしの泣くは決まり無し。
蛋白石色オパアルいろ[#「蛋白石色」は底本では「胥白石色」]のあの空が
ふつと渦巻く海に見え、
波間なみまに[#「波間に」は底本では「波問に」]もがく白い手の
老ふけたサツフオオ、死にきれぬ
若い心のサツフオオを
ありあり眺めて共に泣く。
また虻あぶが啼なく昼さがり、
金の箔はくおく連翹れんげうと、
銀と翡翠ひすゐの象篏ざうがんの
丁子ちやうじの花の香かのなかで、
※あつ[#「執/れんが」、U+24360、66-下-13]い吐息をほつと吐つく
若い吉三きちさの前髪を
わたしの指は撫なでながら、
そよ風のやうに泣いてゐる。


伊香保の街

榛名山はるなさんの一角に、
段また段を成して、
羅馬ロオマ時代の
野外劇場アンフイテアトル[#ルビの「アンフイテアトル」は底本では「アンフイテトアル」]の如ごとく、
斜めに刻み附つけられた
桟敷形がたの伊香保いかほの街。

屋根の上に屋根、
部屋の上に部屋、
すべてが温泉宿やどである。
そして、榛はんの若葉の光が
柔かい緑で
街全体を濡ぬらしてゐる。

街を縦に貫く本道ほんだうは
雑多の店に縁ふちどられて、
長い長い石の階段を作り、
伊香保いかほ神社の前にまで、
Hエツチの字を無数に積み上げて、
殊更ことさらに建築家と絵師とを喜ばせる。


市に住む木魂

木魂こだまは声の霊、
如何いかに微かすかなる声をも
早く感じ、早く知る。
常に時に先だつ彼女は
また常に若し。

近き世の木魂こだまは
市いちの中、大路おほぢの
並木の蔭かげに佇たゝずみ、
常に耳を澄まして聞く。
新しき生活の
諧音かいおんの
如何いかに生じ、
如何いかに移るべきかを。

木魂こだまは稀まれにも
肉身にくしんを示さず、
人の狎なれて
驚かざらんことを怖おそる。
唯ただ折折をりをりに
叫び且かつ笑ふのみ。


M氏に

小高こだかい丘の上へ、
何なにかを叫ぼうとして、
後あとから、後あとからと
駆け登つて行ゆく人。

丘の下には
多勢おほぜいの人間が眠つてゐる。
もう、夜よるでは無い、
太陽は中天ちうてんに近づいてゐる。

登つて行ゆく人、行ゆく人が
丘の上に顔を出し、
胸を張り、両手を拡げて、
「兄弟よ」と呼ばはる時、
さつと血煙ちけぶりがその胸から立つ、
そして直すぐ其その人は後ろに倒れる。
陰険な狙撃そげきの矢に中あたつたのである。
次の人も、また次の人も、
みんな丘の上で同じ様に倒れる。

丘の下には
眠つてゐる人ばかりで無い、
目を覚さました人人ひとびとの中から
丘に登る予言者と
その予言者を殺す反逆者とが現れる。

多勢おほぜいの人間は何なにも知らずにゐる。
もう、夜よるでは無い、
太陽は中天ちうてんに近づいて光つてゐる。


詩に就ついての願ねがひ

詩は実感の彫刻、
行ぎやうと行ぎやう、
節せつと節せつとの間あひだに陰影かげがある。
細部を包む
陰影いんえいは奥行おくゆき、
それの深さに比例して、
自然の肉の片はしが
くつきりと
行ぎやうの表おもてに浮き上がれ。

わたしの詩は粘土細工、
実感の彫刻は
材料に由よりません。
省け、省け、
一線も
余計なものを加へまい。
自然の肉の片はしが
くつきりと
行ぎやうの表おもてに浮き上がれ。


宇宙と私

宇宙から生れて
宇宙のなかにゐる私が、
どうしてか、
その宇宙から離れてゐる。
だから、私は寂さびしい、
あなたと居ても寂さびしい。
けれど、また、折折をりをり、
私は宇宙に還かへつて、
私が宇宙か、
宇宙が私か、解わからなくなる。
その時、私の心臓が宇宙の心臓、
その時、私の目が宇宙の目、
その時、私が泣くと、
万事を忘れて泣くと、
屹度きつと雨が降る。
でも、今日けふの私は寂さびしい、
その宇宙から離れてゐる。
あなたと居ても寂さびしい。


白楊のもと

ひともとの
冬枯ふゆがれの
円葉柳まろはやなぎは
野の上に
ゴシツク風の塔を立て、

その下もとに
野を越えて
白く光るは
遠からぬ
都の街の屋根と壁。

ここまでは
振返ふりかへり
都ぞ見ゆる。
後ろ髪
引かるる思ひ為せぬは無し。

さて一歩、
つれなくも
円葉柳まろはやなぎを
離るれば、
誰たれも帰らぬ旅の人。


わが髪

わが髪は
又もほつるる。
朝ゆふに
なほざりならず櫛くしとれど。

ああ、誰たれか
髪美うつくしく
一ひとすぢも
乱さぬことを忘るべき。

ほつるるは
髪の性さがなり、
やがて又
抑おさへがたなき思ひなり。


坂本紅蓮洞さん

わが知れる一柱ひとはしらの神の御名みなを讃たたへまつる。
あはれ欠けざることなき「孤独清貧せいひん」の御霊みたま、
ぐれんどうの命みことよ。

ぐれんどうの命みことにも著つけ給たまふ衣きぬあり。
よれよれの皺しはの波、酒染さかじみの雲、
煙草たばこの焼痕やけあとの霰あられ模様。

もとより痩やせに痩やせ給たまへば
衣きぬを透とほして乾物ひものの如ごとく骨だちぬ。
背丈の高きは冬の老木おいきのむきだしなるが如ごとし。

ぐれんどうの命みことの顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみは音楽なり、
断たえず不思議なる何事なにごとかを弾きぬ。
どす黒く青き筋肉の蛇の節ふし廻し………

わが知れる芸術家の集りて、
女と酒とのある処ところ、
ぐれんどうの命みこと必ず暴風あらしの如ごとく来きたりて罵のゝしり給たまふ。

何処いづこより来給きたまふや、知り難がたし、
一所いつしよ不住ふぢゆうの神なり、
きちがひ茄子なすの夢の如ごとく過ぎ給たまふ神なり。

ぐれんどうの命みことの御言葉みことばの荒さよ。
人皆その眷属けんぞくの如ごとくないがしろに呼ばれながら、
猶なほこの神と笑ひ興ずることを喜びぬ。


焦燥せうさう

あれ、あれ、あれ、
後あとから後あとからとのし掛つて、
ぐいぐいと喉元のどもとを締める
凡俗の生せいの圧迫………
心は気息いきを次つぐ間まも無く、
どうすればいいかと
唯ただ右へ左へうろうろ………

もう是これが癖になつた心は、
大やうな、初心うぶな、
時には迂濶うくわつらしくも見えた
あの好すいたらしい様子を丸まるで失ひ、
氷のやうに冴さえた
細身の刄先はさきを苛苛いらいらと
ふだんに尖とがらす冷たさ。

そして心は見て見ぬ振ふり……
凡俗の生せいの圧迫に
思ひきりぶつ突つかつて、
思ひきり撥はねとばされ、
ばつたり圧おしへされた
これ、この無残な蛙かへるを――
わたしの青白い肉を。

けれど蛙かへるは死なない、
びくびくと顫ふるひつづけ、
次の刹那せつなに
もう直すぐ前へ一歩、一歩、
裂けてはみだした膓はらわたを
両手で抱きかかへて跳ぶ、跳ぶ。
そして此この人間の蛙かへるからは血が滴たれる。

でも猶なほ心は見て見ぬ振ふり……
泣かうにも涙が切れた、
叫ぼうにも声が立たぬ。
乾いた心の唇をじつと噛かみしめ、
黙つて唯ただうろうろと※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがくのは
人形だ、人形だ、
苦痛の弾機ばねの上に乗つた人形だ。


人生

被眼布めかくししたる女にて我がありしを、
その被眼布めかくしは却かへりて我われに
奇くしき光を導き、
よく物を透とほして見せつるを、
我が行ゆく方かたに淡紅うすあかき、白き、
とりどりの石の柱ありて倚よりしを、
花束と、没薬もつやくと、黄金わうごんの枝の果物と、
我が水鏡みづかゞみする青玉せいぎよくの泉と、
また我に接吻くちづけて羽羽はばたく白鳥はくてうと、
其等それらみな我の傍かたへを離れざりしを。

ああ、我が被眼布めかくしは落ちぬ。
天地あめつちは忽たちまちに状変さまかはり、
うすぐらき中に我は立つ。
こは既に日の入いりはてしか、
夜よのまだ明けざるか、
はた、とこしへに光なく、音なく、
望のぞみなく、楽たのしみなく、
唯ただ大いなる陰影かげのたなびく国なるか。

否いなとよ、思へば、
これや我が目の俄にはかにも盲しひしならめ。
古き世界は古きままに、
日は真赤まつかなる空を渡り、
花は緑の枝に咲きみだれ、
人は皆春のさかりに、
鳥のごとく歌ひ交かはし、
うま酒は盃さかづきより滴したゝれど、
われ一人ひとりそを見ざるにやあらん。

否いなとよ、また思へば、幸ひは
かの肉色にくいろの被眼布めかくしにこそありけれ、
いでや再びそれを結ばん。
われは戦をのゝく身を屈かゞめて
闇やみの底に冷たき手をさし伸ぶ。

あな、悲し、わが推おしあての手探りに、
肉色にくいろの被眼布めかくしは触るる由よしも無し。
とゆき、かくゆき、さまよへる此処ここは何処いづこぞ、
かき曇りたる我が目にも其それと知るは、
永き夜よの土を一際ひときは黒く圧おす
静かに寂さびしき扁柏いとすぎの森の蔭かげなるらし。


或る若き女性に

頼む男のありながら
添はれずと云いふ君を見て、
一所いつしよに泣くは易やすけれど、
泣いて添はれる由よしも無し。

何なになぐさめて云いはんにも
甲斐かひなき明日あすの見通され、
それと知る身は本意ほいなくも
うち黙もだすこそ苦しけれ。

片おもひとて恋は恋、
ひとり光れる宝玉はうぎよくを
君が抱いだきて悶もだゆるも
人の羨うらやむ幸さちながら、

海をよく知る船長は
早くも暴風しけを避さくと云いひ、
賢き人は涙もて
身を浄きよむるを知ると云いふ。

君は何いづれを択えらぶらん、
かく問ふことも我はせず、
うち黙もだすこそ苦しけれ。
君は何いづれを択えらぶらん。


君死にたまふことなかれ
 (旅順の攻囲軍にある弟宗七を歎きて)

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末すゑに生れし君なれば
親のなさけは勝まさりしも、
親は刄やいばをにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四にじふしまでを育てしや。

堺さかいの街のあきびとの
老舗しにせを誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事なにごとぞ、
君は知らじな、あきびとの
家いへの習ひに無きことを。

君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出いでまさね[#「出でまさね」は底本では「出でませね」]、
互かたみに人の血を流し、
獣けものの道みちに死ねよとは、
死ぬるを人の誉ほまれとは、
おほみこころの深ければ、
もとより如何いかで思おぼされん。

ああ、弟よ、戦ひに
君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父君ちゝぎみに
おくれたまへる母君はゝぎみは、
歎きのなかに、いたましく、
我子わがこを召めされ、家いへを守もり、
安やすしと聞ける大御代おほみよも
母の白髪しらがは増さりゆく。

暖簾のれんのかげに伏して泣く
あえかに若き新妻にひづまを
君忘るるや、思へるや。
十月とつきも添はで別れたる
少女をとめごころを思ひみよ。
この世ひとりの君ならで
ああまた誰たれを頼むべき。
君死にたまふことなかれ。


梅蘭芳

うれしや、うれしや、梅蘭芳メイランフワン
今夜、世界は
(ほんに、まあ、華美はでな唐画たうぐわの世界、)
真赤まつかな、真赤まつかな
石竹せきちくの色をして匂にほひます。
おお、あなた故に、梅蘭芳メイランフワン、
あなたの美うつくしい楊貴妃やうきひゆゑに、梅蘭芳メイランフワン、
愛に焦こがれた女ごころが
この不思議な芳かんばしい酒となり、
世界を浸ひたして流れます。
梅蘭芳メイランフワン、
あなたも酔ゑつてゐる、
あなたの楊貴妃やうきひも酔ゑつてゐる、
世界も酔ゑつてゐる、
わたしも酔ゑつてゐる、
むしやうに高いソプラノの
支那しなの鼓弓こきうも酔ゑつてゐる。
うれしや、うれしや、梅蘭芳メイランフワン。


京之介の絵
   (少年雑誌のために)

これは不思議な家いへの絵だ、
家いへでは無くて塔の絵だ。
見上げる限り、頑丈ぐわんぢやうに
五階重ねた鉄づくり。

入口いりくちからは機関車が
煙を吐いて首を出し、
二階の上の露台ろたいには
大だい起重機が据ゑてある。

また、三階の正面は
大きな窓が向日葵ひまはりの
花で一いつぱい飾られて、
そこに誰たれやら一人ひとりゐる。

四階しかいの窓の横からは
長い梯子はしごが地に届き、
五階は更に最大の
望遠鏡が天に向く。

塔の尖端さきには黄金きんの旗、
「平和」の文字が靡なびいてる。
そして、此この絵を描かいたのは
小ちさい、優しい京之介きやうのすけ。


鳩と京之介
   (少年雑誌のために)

秋の嵐あらしが荒あれだして、
どの街の木も横倒よこたふし。
屋根の瓦かはらも、破風板はふいたも、
剥はがれて紙のやうに飛ぶ。

おお、この荒あれに、どの屋根で、
何なにに打たれて傷きずしたか、
可愛かはいい一羽いちはのしら鳩はとが
前の通りへ落ちて来た。

それと見るより八歳やつになる、
小ちさい、優しい、京之介きやうのすけ、
嵐あらしの中に駆け寄つて、
じつと両手で抱き上げた。

傷きずした鳩はとは背が少し
うす桃色に染そんでゐる。
それを眺めた京之介きやうのすけ、
もう一いつぱいに目がうるむ。

鳩はとを供くれよと、口口くちぐちに
腕白わんぱくどもが呼ばはれど、
大人おとなのやうに沈著おちついて、
頭かぶりを振つた京之介きやうのすけ。


Aの字の歌
   (少年雑誌のために)

Aiアイ (愛あい)の頭字かしらじ、片仮名と
アルハベツトの書き初はじめ、
わたしの好きなAエエの字を
いろいろに見て歌ひましよ。

飾り気けの無いAエエの字は
掘立ほつたて小屋の入はひり口くち、
奥に見えるは板敷いたじきか、
茣蓙ござか、囲炉裏いろりか、飯台はんだいか。

小ちさくて繊弱きやしやなAエエの字は
遠い岬に灯台
ほつそりとして一つ立て、
それを繞めぐるは白い浪なみ。

いつも優しいAエエの字は
象牙ざうげの琴柱ことぢ、その傍そばに
目には見えぬが、好よい節ふしを
まぼろしの手が弾いてゐる。

いつも明るいAエエの字は
白水晶しろずゐしやうの三稜鏡プリズムに
七ななつの羽はねの美うつくしい
光の鳥をじつと抱く。

元気に満ちたAエエの字は
広い沙漠さばくの砂を踏み
さつく、さつくと大足おほあしに、
あちらを向いて急ぐ人。

つんとすましたAエエの字は
オリンプ山ざんの頂いただきに
槍やりに代へたる銀白ぎんはくの
鵞がペンの尖さきを立ててゐる。

時にさびしいAエエの字は
半身はんしんだけを窓に出し、
肱ひぢをば突いて空を見る
三角頭巾づきんの尼すがた。

しかも威ゐのあるAエエの字は
埃及エヂプトの野の朝ゆふに
雲の間あひだの日を浴びて
はるかに光る金字塔ピラミツド[#ルビの「ピラミツド」は底本では「ピラミツト」]。

そして折折をりをりAエエの字は
道化役者のピエロオの
赤い尖とがつた帽となり、
わたしの前に踊り出す。


蟻の歌
   (少年雑誌のために)

蟻ありよ、蟻ありよ、
黒い沢山たくさんの蟻ありよ、
お前さん達の行列を見ると、
8はち、8はち、8はち、8はち、
8はち、8はち、8はち、8はち……
幾万と並んだ
8はちの字の生きた鎖が動く。

蟻ありよ、蟻ありよ、
そんなに並んで何処どこへ行ゆく。
行軍かうぐんか、
運動会か、
二千メエトル競走か、
それとも遠いブラジルへ
移住して行ゆく一隊か。

蟻ありよ、蟻ありよ、
繊弱かよわな体で
なんと云いふ活撥くわつぱつなことだ。
全身を太陽に暴露さらして、
疲れもせず、
怠なまけもせず、
さつさ、さつさと進んで行ゆく。

蟻ありよ、蟻ありよ、
お前さん達はみんな
可愛かはいい、元気な8はちの字少年隊。
行ゆくがよい、
行ゆくがよい、
8はち、8はち、8はち、8はち、
8はち、8はち、8はち、8はち………[#「………」は底本では「‥‥‥」]


壺の花
   

コスモス

一本のコスモスが笑つてゐる。
その上に、どつしりと
太陽が腰を掛けてゐる。
そして、きやしやなコスモスの花が
なぜか、少しも撓たわまない、
その太陽の重味に。


百姓の爺ぢいさんの、汚よごれた、
硬い、節ふしくれだつた手、
ちよいと見ると、褐色かつしよくの、
朝鮮人蔘にんじんの燻製くんせいのやうな手、
おお、之これがほんたうの労働の手、
これがほんたうの祈祷きたうの手。


著物

二枚ある著物きものなら
一枚脱ぐのは易やすい。
知れきつた道理を言はないで下さい。
今ここに有るのは一枚も一枚、
十人じふにんの人数にんずに対して一枚、
結局、どうしたら好いいのでせう。


小さな硯すゞりで朱しゆを擦する時、
ふと、巴里パリイの霧の中の
珊瑚紅さんごこうの日が一点
わたしの書斎の帷とばり[#ルビの「とばり」は底本では「とぼり」]に浮うかび、
それがまた、梅蘭芳メイランフワンの
楊貴妃やうきひの酔ゑつた目附めつきに変つて行ゆく。


独語どくご

思はぬで無し、
知らぬで無し、
云いはぬでも無し、
唯ただ其それの仲間に入いらぬのは、
余りに事の手荒てあらなれば、
歌ふ心に遠ければ。

※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばつた

わたしは小さな※(「虫+奚」、第3水準1-91-59)※(「虫+斥」、第3水準1-91-53)ばつたを
幾つも幾つも抑おさへることが好きですわ。
わたしの手のなかで、
なんと云いふ、いきいきした
この虫達の反抗力でせう。
まるで BASTILLEバスチユ の破獄らうやぶりですわ。


蚊よ、そなたの前で、
人間の臆病心おくびやうしんは
大鏡となり、
また拡声器ともなる。
吸血鬼の幻影、
鬼女きぢよの歎声たんせい。


火に来ては死に、
火に来ては死ぬ。
愚鈍ぐどんな虫の本能よ。
同じ火刑くわけいの試練を
幾万年くり返す積つもりか。
蛾がと、さうして人間の女。


朝顔

水浅葱みづあさぎの朝顔の花、
それを見る刹那せつなに、
美うつくしい地中海が目に見えて、
わたしは平野丸ひらのまるに乗つてゐる。
それから、ボチセリイの
派手な※(濁点付き片仮名ヰ、1-7-83)イナスの誕生が前に現れる。


蝦蟇がま

罷まかり出ましたは、夏の夜よの
虫の一座の立たて者で御座る。
歌ふことは致しませねど、
態度を御覧下されえ。
人間の学者批評家にも
わたしのやうな諸君がゐらせられる。


蟷螂かまきり

男性の専制以上に
残忍を極める女性の専制
蟷螂かまきりの雌めすは
その雄をすを食べてしまふ。
種しゆを殖ふやす外ほかに
恋愛を知らない蟷螂かまきり。


玉虫

もう、玉虫の一対つがひを
綺麗きれいな手箱に飼ふ娘もありません。
青磁色せいじいろの流行が
廃すたれたよりも寂さびしい事ですね。
今の娘に感激の無いのは、
玉虫に毒があるよりも
いたましい事ですね。


寂寥せきれう

漸やうやくに我われ今は寂さびし、
独り在るは寂さびし、
薔薇ばらを嗅かげども寂さびし、
君と語れども寂さびし、
筆執とりて書けども寂さびし、
高く歌へば更に寂さびし。


小鳥の巣

落葉おちばして人目に附つきぬ、
わが庭の高き木末こずゑに
小鳥の巣一つ懸かれり。
飛び去りて鳥の影無し、
小鳥の巣、霜の置くのみ、
小鳥の巣、日の照てらすのみ。


末女すゑむすめ

我が藤子ふぢこ九ここのつながら、
小学の級長ながら、
夜更よふけては独り目覚めざめて
寝台ねだいより親を呼ぶなり。
「お蒲団ふとんがまた落ちました。」
我が藤子ふぢこ風引くなかれ。
[#ここで段組み終わり]
[#改丁]
[#ここからページの左右中央]


薔薇の陰影
   (雑詩廿五章)


[#改丁]
[#ここから2段組み]

屋根裏の男

暗い梯子はしごを上のぼるとき
女の脚あしは顫ふるへてた。
四角な卓に椅子いす一つ、
側そばの小さな書棚しよたなには
手ずれた赤い布表紙
金字きんじの本が光つてた。
こんな屋根裏に室借まがりする
男ごころのおもしろさ。
女を椅子いすに掛けさせて、
「驚いたでせう」と言ひながら、
男は葉巻に火を点つけた。


或女あるをんな

舞うて疲れた女なら、
男の肩に手を掛けて、
汗と香油かうゆの熱ほてる頬ほを
男の胸に附つけよもの。
男の注ついだペパミント[#「ペパミント」は底本では「ペハミント」]
男の手から飲まうもの。
わたしは舞も知りません。
わたしは男も知りません。
ひとりぼつちで片隅に。――
いえ、いえ、あなたも知りません。


椅子の上

寒水石かんすゐせきのてえぶるに
薄い硝子がらすの花の鉢。
櫂かひの形かたちのしやぼてんの
真赤まつかな花に目をやれば、
来る日で無いと知りながら
来る日のやうに待つ心。
無地の御納戸おなんど、うすい衣きぬ、
台湾竹たいわんちくのきやしやな椅子いす。
恋をする身は待つがよい、
待つて涙の落ちるほど。


馬場孤蝶先生

わたしの孤蝶こてふ先生は、
いついつ見ても若い方かた、
いついつ見てもきやしやな方かた、
品ひんのいい方かた、静かな方かた。
古い細身の槍やりのよに。

わたしの孤蝶こてふ先生は、
ものおやさしい、清すんだ音ねの
乙おつの調子で話す方かた、
ふらんす、ろしあの小説を
わたしの為ために話す方かた。

わたしの孤蝶こてふ先生は、
それで何処どこやら暗い方かた、
はしやぐやうでも滅入めいる方かた、
舞妓まひこの顔がをりをりに、
扇の蔭かげとなるやうに。


故郷
[#「故郷」は底本では「故」]

堺さかいの街の妙国寺
その門前の庖丁屋はうちよやの
浅葱あさぎ納簾のれんの間あひだから
光る刄物はもののかなしさか。
御寺おてらの庭の塀の内うち、
鳥の尾のよにやはらかな
青い芽をふく蘇鉄そてつをば
立つて見上げたかなしさか。
御堂おだうの前の十とをの墓、
仏蘭西船フランスぶねに斬きり入いつた
重い科とがゆゑ死んだ人、
その思出おもひでのかなしさか。
いいえ、それではありませぬ。
生れ故郷に来きは来きたが、
親の無い身は巡礼の
さびしい気持になりました。


自覚

「わたしは死ぬ気」とつい言つて、
その驚いた、青ざめた、
慄ふるへた男を見た日から、
わたしは死ぬ気が無くなつた。
まことを云いへば其その日から
わたしの世界を知りました。


約束

いつも男はおどおどと
わたしの言葉に答へかね、
いつも男は酔ゑつた振ふり。
あの見え透すいた酔ゑつた振ふり。
「あなた、初めの約束の
塔から手を取つて跳びませう。」


涼夜りやうや

場末ばずゑの寄席よせのさびしさは
夏の夜よながら秋げしき。
枯れた蓬よもぎの細茎ほそぐきを
風の吹くよな三味線しやみせんに
曲弾きよくびきの音ねのはらはらと
螽斯ばつたの雨が降りかかる。
寄席よせの手前の枳殻垣きこくがき、
わたしは一人ひとり、灯ひの暗い、
狭い湯殿で湯をつかひ、
髪を洗へば夜よが更ける。


渋谷にて

こきむらさきの杜若かきつばた
採とろと水際みぎはにつくばんで
濡ぬれた袂たもとをしぼる身は、
ふと小娘こむすめの気に返る。
男の机に倚より掛り、
男の遣つかふペンを執とり、
男のするよに字を書けば、
また初恋の気に返る。


浜なでしこ

逗子づしの旅からはるばると
浜なでしこをありがたう。
髪に挿せとのことながら、
避暑地の浜の遊びをば
知らぬわたしが挿したなら、
真黒まつくろに焦げて枯れませう。
ゆるい斜面をほろほろと
踏めば崩れる砂山に、
水著みづぎすがたの脛白はぎじろと
なでしこを摘む楽しさは
女のわたしの知らぬこと。
浜なでしこをありがたう。


むかしの恋の気の長さ、
のんべんくだりと日を重ね、
互たがひにくどくど云いひ交かはす。

当世たうせいの恋のはげしさよ、
常つねは素知そしらぬ振ふりながら、
刹那せつなに胸の張りつめて
しやうも、やうも無い日には、
マグネシユウムを焚たくやうに、
機関の湯気の漏るやうに、
悲鳴を上げて身もだえて
あの白鳥はくてうが死ぬやうに。


夏の宵

いたましく、いたましく、
流行はやりの風かぜに三人みたりまで
我児わがこぞ病める。
梅霖つゆの雨しとどと降るに、汗流れ、
こんこんと、苦しき喉のどに咳せきするよ。
兄なるは身を焼く※ねつ[#「執/れんが」、U+24360、100-上-6]に父を呼び、
泣きむづかるを、その父が
抱いだきすかして、売薬の
安知歇林アンチピリンを飲ませども、
咳せきしつつ、半なかばゑづきぬ[#「ゑづきぬ」は底本では「えづきぬ」]。
あはれ、此夜このよのむし暑さ、
氷ぶくろを取りかへて、
団扇うちはとり児等こらを扇あふげば、
蚊帳かやごしに蚊のむれぞ鳴く。


如何に若き男

如何いかに若き男、
ダイヤの玉たまを百持てこ。
空手むなでしながら採とり得うべき
物とや思ふ、あはれ愚かに。
たをやめの、たをやめの紅あかきくちびる。


男こそ慰めはあれ、
おほぎみの側そばにも在りぬ、
みいくさに出いでても行ゆきぬ、
酒さかほがひ、夜通よどほし遊び、
腹立だちて罵のゝしりかはす。
男こそ慰めはあれ、
少女をとめらに己おのが名を告のり、
厭あきぬれば棄すてて惜をしまず。


わが見るは人の身なれば、
死の夢を、沙漠さばくのなかの
青ざめし月のごとくに。
また見るは、女にしあれば
消し難がたき世のなかの夢。


男の胸

名工めいこうのきたへし刀
一尺に満たぬ短き、
するどさを我は思ひぬ。
あるときは異国人とつくにびとの
三角の尖さきあるメスを
われ得えまく切せちに願ひぬ。
いと憎き男の胸に
利とき白刄しらはあてなん刹那せつな、
たらたらと我袖わがそでにさへ
指にさへ散るべき、紅あかき
血を思ひ、我われほくそ笑ゑみ、
こころよく身さへ慄ふるふよ。
その時か、にくき男の
云いひがたき心宥ゆるさめ。
しかは云いへ、突かんとすなる
その胸に、夜よるとしなれば、
額ぬかよせて、いとうら安やすの
夢に入いる人も我なり。
男はた、いとしとばかり
その胸に我われかき抱いだき、
眠ること未いまだ忘れず。
その胸を今日けふは仮かさずと
たはぶれに云いふことあらば、
我われ如何いかに佗わびしからまし。


鴨頭草つきくさ

鴨頭草つきくさのあはれに哀かなしきかな、
わが袖そでのごとく濡ぬれがちに、
濃き空色の上目うはめしぬ、
文月ふづきの朝の木このもとの
板井のほとり。


月見草

はかなかる花にはあれど、
月見草つきみさう、
ふるさとの野を思ひ出いで、
わが母のこと思ひ出いで、
恋の日を思ひ出いで、
指にはさみぬ、月見草つきみさう。


伴奏

われはをみな、
それゆゑに
ものを思ふ。

にしき、こがね、
女御にようご、后きさき、
すべて得えばや。

ひとり眠る
わびしさは
をとこ知らじ。

黒きひとみ、
ながき髪、
しじに濡ぬれぬ。

恋し、恋し、
はらだたし、
ねたし、悲し。


初春はつはる

ひがむ気短きみじかな鵯鳥ひよどりは
木末こずゑの雪を揺りこぼし、
枝から枝へ、甲高かんだかに
凍いてつく冬の笛を吹く。
それを聞く
わたしの心も裂けるよに。
それでも木蔭こかげの下枝しづえには
あれ、もう、愛らしい鶯うぐひすが
雪解ゆきげの水の小こながれに
軽く反そり打つ身を映し、
ちちと啼なく、ちちと啼なく。
その小啼ささなきは低くても、
春ですわね、春ですわね。


仮名文字

わが歌の仮名文字よ、
あはれ、ほつほつ、
止所とめどなく乱れ散る涙のしづく。
誰たれかまた手に結び玉たまとは愛めでん、
みにくくも乱れ散る涙のしづく。
あはれ、この文字、我が夫せな読みそ、
君ぬらさじと堰せきとむる
しがらみの句切くぎりの淀よどに
青き愁うれひの水渋みしぶいざよふ。


子守

みなしごの十二じふにのをとめ、
きのふより我家わがいへに来て、
四よつになる子の守もりをしぬ。
筆と紙、子守は持ちて、
筋すぢを引き、環くわんをゑがきて、
箪笥たんすてふ物を教へぬ。
我子わがこらは箪笥たんすを知らず、
不思議なる絵ぞと思へる。


寂しき日

あこがれまし、
いざなはれまし、
あはれ、寂さびしき、寂さびしき此この日を。
だまされまし、賺すかされまし、
よしや、よしや、
見殺みごろしに人のするとも。


煙草

わかき男は来るたびに
よき金口きんくちの煙草たばこのむ。
そのよき香り、新しき
愁うれへのごとくやはらかに、
煙けぶりと共にただよひぬ。
わかき男は知らざらん、
君が来るたび、人知れず、
我が怖おそるるも、喜ぶも、
唯ただその手なる煙草たばこのみ。


百合の花

素焼の壺つぼにらちもなく
投げては挿せど、百合ゆりの花、
ひとり秀ひいでて、清らかな
雪のひかりと白さとを
貴あてな金紗きんしやの匂にほはしい
※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)エルに隠す面おもざしは、
二十歳はたちばかりのつつましい
そして気高けだかい、やさがたの
侯爵夫人マルキイズにもたとへよう。
とり合せたる金蓮花きんれんくわ、
麝香じやかうなでしこ、鈴蘭すゞらんは
そぞろがはしく手を伸べて、
宝玉函はうぎよくいれの蓋ふたをあけ、
黄金きんの腕環うでわや紫の
斑入ふいりの玉たまの耳かざり、
真珠の頸環くびわ、どの花も
※あつ[#「執/れんが」、U+24360、106-上-6]い吐息を投げながら、
華奢くわしやと匂にほひを競きそひげに、
まばゆいばかり差出せど
あはれ、其等それらの楽欲げうよくと、
世の常の美を軽かろく見て、
わが侯爵夫人マルキイズ、なにごとを
いと深げにも、静かにも
思ひつづけて微笑ほゝゑむか。
花の秘密は知り難がたい、
けれど、百合ゆりをば見てゐると、
わたしの心は涯はてもなく
拡がつて行ゆく、伸びて行ゆく。
我われと我身わがみを抱くやうに
世界の人をひしと抱き、
※ねつ[#「執/れんが」、U+24360、106-下-5]と、涙と、まごころの
中に一所いつしよに融とけ合つて
生きたいやうな、清らかな
愛の心になつて行ゆく。

 

月を釣る
   

人は暑い昼に釣る、
わたしは涼しい夜よるに釣る。
流れさうで流れぬ糸が面白い、
水だけが流れる。
わたしの釣鈎つりばりに餌ゑさは要いらない、
わたしは唯ただ月を釣る。


人中

唯ただ一人ひとりある日よりも、
大勢とゐる席で、
わが姿、しよんぼりと細ほそりやつるる。
平生へいぜいは湯のやうに沸わく涙も
かう云いふ日には凍るやらん。
立枠たてわく模様の水浅葱みづあさぎ、はでな単衣ひとへを著きたれども、
わが姿、人にまじればうら寂さびしや。


炎日

わが家いへの八月の日の午後、
庭の盥たらひに子供らの飼ふ緋目高ひめだかは
生湯なまゆの水に浮き上がり、
琺瑯色はふらういろの日光に
焼釘やけくぎの頭あたまを並べて呼吸いきをする。
その上にモザイク形がたの影を落おとす
静かに大きな金網。
木この葉は皆あぶら汗に光り、
隣の肥えた白い猫は
木の根に眠つたまま死ぬやらん。
わがする幅広はゞびろの帯こそ大蛇だいじやなれ、
じりじりと、じりじりと巻きしむる。


月見草

夜あけ方がたに降つた夕立が
庭に流した白い砂、
こなひだ見て来た岩代いはしろの
摺上川すりがみがはが想おもはれる。
砂に埋うもれて顔を出す
濡ぬれた黄いろの月見草つきみさう、
あれ、あの花が憎いほど
わたしの心をさし覗のぞき、
思ひなしかは知らねども、
やつれた私を引き立たす。


明日

過ぎこし方かたを思へば
空わたる月のごとく、
流るる星のごとくなりき。
行方ゆくへ知らぬ身をば歎かじ、
わが道は明日あすも弧こを描ゑがかん、
踊りつつ往ゆかん、
曳ひくひかり、水色の長き裳もの如ごとくならん。


芸術

芸術はわれを此処ここにまで導きぬ、
今こん[#ルビの「こん」はママ]こそ云いはめ、
われ、芸術を彼処かしこに伴ひ行ゆかん、
より真実に、より光ある処ところへと。


われは軛くびきとなりて挽ひかれ、
駿足しゆんそくの馬となりて挽ひき、
車となりてわれを運ぶ。
わが名は「真実」なれども
「力」と呼ぶこそすべてなれ。


走馬灯

まはれ、まはれ、走馬灯そうまとう。
走馬灯そうまとうは幾たびまはればとて、
曲もなき同じふやけし馬の絵なれど、
猶なほまはれ、まはれ、
まはらぬは寂さびしきを。

桂氏かつらしの馬は西園寺氏さいをんじしの馬に
今こそまはりゆくなれ、まはれ、まはれ。


空しき日

女、三越みつこしの売出しに行ゆきて、
寄切よせぎれの前にのみ一日ひとひありき。
帰りきて、かくと云いへば、
男は独り棋盤ごばんに向ひて
五目並べの稽古けいこしてありしと云いふ。
(零れいと零れいとを重ねたる今日けふの日の空むなしさよ。)
さて男は疲れて黙もだし、また語らず、
女も終つひに買物を語らざりき。
その買ひて帰れるは
纔わづかに高浪織たかなみおりの帯の片側かたかはに過ぎざれど。


麦わら

それは細き麦稈むぎわら、
しやぼん玉を吹くによけれど、竿さをとはしがたし、
まして、まして柱とは。
されど、麦稈むぎわらも束として火を附つくれば
ゆゆしくも家いへを焼く。
わがをさな児ごは賢し、
束とはせず、しやぼん玉を吹いて行ゆくよ。


一切を要す、
われは憧あこがるる霊たましひなり。
物をしみな為せそ、
若もし齎もたらす物の猶なほありとならば。――
初めに取れる果実このみは年経としふれど紅あかし、
われこそ物を損ぜずして愛めづるすべを知るなれ。


対話

「常に杖つゑに倚よりて行ゆく者は
その杖つゑを失ひし時、自みづからをも失はん。
われは我にて行ゆかばや」と、われ語る。
友は笑ひて、さて云いひぬ、
「な偽いつはりそ、
つとばかり涙さしぐむ君ならずや、
恋人の名を耳にするにも。」


或女

古き物の猶なほ権威ある世なりければ
彼かれは日本の女にて東の隅にありき。
また彼かれは精錬せられざりしかば
猶なほ鉱あらがねのままなりき。
みづからを白金プラチナの質しつと知りながら……


物を書きさし、思ひさし、
広東カントン蜜柑みかんをむいたれば、
藍あゐと鬱金うこんに染まる爪つめ。
江戸の昔の廣重ひろしげの
名所づくしの絵を刷つた
版師はんしの指は斯かうもあらうか。
藍あゐと鬱金うこんに染まる爪つめ。


或国

堅苦しく、うはべの律義りちぎのみを喜ぶ国、
しかも、かるはずみなる移り気ぎの国、
支那しな人ほどの根気なくて、浅く利己主義なる国、
亜米利加アメリカの富なくて、亜米利加アメリカ化する国、
疑惑と戦慄せんりつとを感ぜざる国、
男みな背を屈かゞめて宿命論者となりゆく国、
めでたく、うら安やすく、万万歳ばんばんざいの国。


髪かき上ぐる手ざはりが
何なにやら温泉場ばにゐるやうな
軽い気分にわたしをする。
この間まに手紙を書きませう、
朝の書斎は凍こほれども、
「君を思ふ」と巴里パリイ宛あてに。


或家のサロン

女は在る限り
粗あらけづりの明治の女ばかり。
唯ただ一人ひとりあの若い詩人がゐて
今日けふの会は引き立つ。
永井荷風かふうの書くやうな
おちついた、抒情詩的な物言ひ、
また歌麿うたまろの版画の
「上の息子」の身のこなし。


片時

わが小ちさい娘の髪を撫なでるとき、
なにか知ら、生れ故郷が懐おもはれる。
母がこと、亡き姉のこと、伯母がこと、
あれや、其それ、とりとめもない事ながら、
片時かたときは黄金こがねの雨が降りかかる。


春昼しゆんちう

三月さんぐわつの昼のひかり、
わが書斎に匍はふ藤ふぢむらさき。
そのなかに光ひかるの顔の白、
七瀬なゝせの帯の赤、
机に掛けた布の脂色やにいろ、
みな生生いきいきと温かに……
されど唯ただ壺つぼの彼岸桜ひがんさくらと
わが姿とのみは淡く寒し。
君の久しく留守なれば
静物の如ごとく我も在るらん。


障子あくれば薄明り、
しづかに暮れるたそがれに、
をりをりまじる薄雪は
錫箔すゞはくよりもたよりなし。
ほつれた髪にとりすがり、
わたしの顔をさし覗のぞく
雪のこころの寂さびしさよ。
しづくとなつて融とけてゆく
雪のこころもさうであらう、
まして、わたしは何なんとすべきぞ。


衣桁いかうの帯からこぼれる
艶なまめいた昼の光の肉色にくいろ。
その下に黒猫は目覚めざめて、
あれ、思ふぞんぶんに伸びをする。
世界は今、黒猫の所有ものになる。


或手

打つ真似まねをすれば、
尾を立てて後あとしざる黒猫、
まんまろく、かはゆく……
けれど、わたしの手は
錫箔すゞはくのやうに薄く冷たく閃ひらめいた。
おお、厭いやな手よ。


通り雨

ちぎれちぎれの雲見れば、
風ある空もむしやくしやと
むか腹ばら立てて泣きたいか。

さう云いふ間まにも、粒なみだ、
泣いて心が直るよに、
春の日の入いり、紅べにさした
よい目元から降りかかる。

濡ぬらせ、濡ぬらせ、
我髪わがかみ濡ぬらせ、通り雨。


春の夜

二夜ふたよ三夜みよこそ円寝まろねもよろし。
君なき閨ねやへ入いろとせず、
椅子いすある居間の月あかり、
黄ざくら色の衣きぬを著きて、
つつましやかなうたた臥ふし。
まだ見る夢はありながら、
うらなく明あくる春のみじか夜よ。


牡丹

散りがたの赤むらさきの牡丹ぼたんの花、
青磁の大鉢おほばちのなかに幽かすかにそよぐ。
侠きやんなるむだづかひの終りに
早くも迫る苦しき日の怖おそれを
回避する心もち……
ええ、よし、それもよし。


女、女、
女は王よりもよろづ贅沢ぜいたくに、
世界の香料と、貴金属と、宝石と、
花と、絹布けんぷとは女こそ使用つかふなれ。
女の心臓のかよわなる血の花弁はなびらの旋律ふしまはしは
エトオフエンの音楽のどの傑作にも勝まさり、
湯殿に隠こもりて素肌のまま足の爪つめ切る時すら、
女の誇りに印度いんどの仏も知らぬほくそゑみあり。
言ひ寄る男をつれなく過ぐす自由も
女に許されたる楽しき特権にして、
相手の男の相場に負けて破産する日も、
女は猶なほ恋の小唄こうたを口吟くちずさみて男ごころを和やはらぐ。
たとへ放火ひつけ殺人ひとごろしの大罪だいざいにて監獄に入いるとも、
男の如ごとく二分刈にぶがりとならず、黒髪は墓のあなたまで浪なみ打ちぬ。
婦人運動を排する諸声もろごゑの如何いかに高ければとて、
女は何時いつまでも新しきゲエテ、カント、ニウトンを生み、
人間は永久とこしへうらわかき母の慈愛に育ちゆく。
女、女、日本の女よ、
いざ諸共もろともに自みづからを知らん。


鬱金

黄と、紅べにと、みどり、
生なまな色どり……
※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉細工しんこざいくのやうなチユウリツプの花よ、葉よ。
それを活いける白い磁の鉢、
きやしやな女の手、
た、た、た、た、と注さす水のおと。
ああ、なんと生生いきいきした昼であろ。
※(「米+參」、第3水準1-89-88)粉細工しんこざいくのやうなチユウリツプの花よ、葉よ。


文の端に

皐月さつきなかばの晴れた日に、
気早きばやい蝉せみが一つ啼なき、
何なにとて啼ないたか知らねども、
森の若葉はその日から
火を吐くやうな息をする。

君の心は知らねども……


教会の窓

崖がけの上なる教会の
古びた壁の脂やにの色、
常に静かでよいけれど、
高い庇ひさしの陰にある
円まるい小窓こまどの摺硝子すりがらす、
誰たれやら一人ひとりうるみ目に
空を見上げて泣くやうな、
それが寂さびしく気にかかる。


裏口へ来た男

台所の閾しきゐに腰すゑた
古ふる洋服の酔ゑつぱらひ、
そつとしてお置きよ、あのままに。
ものもらひとは勿体もつたいない、
髪の乱れも、蒼あをい目も、
ボウドレエルに似てるわね。


つやなき髪に、焼鏝やきごてを
誰たが当あてよとは云いはねども、
はずみ心に縮らせば、
焼けてほろほろ膝ひざに散り、
半なかばうしなふ前髪の
くちをし、悲し、あぢきなし。
あはれと思へ、三十路みそぢへて
猶なほ人恋こふる女の身。


磯にて

浜の日の出の空見れば、
あかね木綿の幕を張り、
静かな海に敷きつめた
廣重ひろしげの絵の水あさぎ。
(それもわたしの思ひなし)
あちらを向いた黒い島。


九段坂

青き夜よなり。
九段くだんの坂を上のぼり詰めて
振返りつつ見下みおろすことの嬉うれしや。
消え残る屋根の雪の色に
近き家家いへいへは石造いしづくりの心地し、
神田、日本橋
遠き街街まちまちの灯ひのかげは
緑金りよくこんと、銀と、紅玉こうぎよくの
星の海を作れり。
電車の轢きしり………
飯田町いひだまち駅の汽笛………
ふと、われは涙ぐみぬ、
高きモンマルトルの
段をなせる路みちを行ゆきて、
君を眺めし
夕ゆふべの巴里パリイを思ひ出いでつれば。


年末

あわただしい師走しはす、
今年の師走しはす
一箇月いつかげつ三十一日は外よそのこと、
わたしの心の暦こよみでは、
わづか五六日ごろくにちで暮れて行ゆく。
すべてを為しさし、思ひさし、
なんにも云いはぬ女にて、
する、する、すると幕になる。


市上

騒音と塵ちりの都、
乱民らんみんと賤民せんみんの都、
静思せいしの暇いとまなくて
多弁の世となりぬ。
舌と筆の暴力は
腕の其それに劣らず。
ここにして勝たんとせば
唯ただ吠ほえよ、大声に吠ほえよ、
さて猛たけく続けよ。
卑しきを忘れし男、
醜きを耻はぢざる女、
げに君達の名は強者きやうしやなり。

 

第一の陣痛
   (雑詩四十一章)

 

第一の陣痛

わたしは今日けふ病んでゐる、
生理的に病んでゐる。
わたしは黙つて目を開あいて
産前さんぜんの床とこに横になつてゐる。

なぜだらう、わたしは
度度たびたび死ぬ目に遭つてゐながら、
痛みと、血と、叫びに慣れて居ながら、
制しきれない不安と恐怖とに慄ふるへてゐる。

若いお医者がわたしを慰めて、
生むことの幸福しあはせを述べて下された。
そんな事ならわたしの方が余計に知つてゐる。
それが今なんの役に立たう。

知識も現実で無い、
経験も過去のものである。
みんな黙つて居て下さい、
みんな傍観者の位置を越えずに居て下さい。

わたしは唯ただ一人ひとり、
天にも地にも唯ただ一人ひとり、
じつと唇を噛かみしめて
わたし自身の不可抗力を待ちませう。

生むことは、現に
わたしの内から爆はぜる
唯ただ一つの真実創造、
もう是非の隙すきも無い。

今、第一の陣痛……
太陽は俄にはかに青白くなり、
世界は冷ひややかに鎮しづまる。
さうして、わたしは唯ただ一人ひとり………


アウギユストの一撃

二歳ふたつになる可愛かはいいアウギユストよ、
おまへのために書いて置く、
おまへが今日けふはじめて
おまへの母の頬ほを打つたことを。
それはおまへの命の
自みづから勝たうとする力が――
純粋な征服の力が
怒りの形かたちと
痙攣けいれんの発作ほつさとになつて
電火でんくわのやうに閃ひらめいたのだよ。
おまへは何なにも意識して居なかつたであらう、
そして直すぐに忘れてしまつたであらう、
けれど母は驚いた、
またしみじみと嬉うれしかつた。
おまへは、他日たじつ、一人ひとりの男として、
昂然かうぜんとみづから立つことが出来る、
清く雄雄ををしく立つことが出来る、
また思ひ切り人と自然を愛することが出来る、
(征服の中枢は愛である、)
また疑惑と、苦痛と、死と、
嫉妬しつとと、卑劣と、嘲罵てうばと、
圧制と、曲学きよくがくと、因襲と、
暴富ぼうふと、人爵じんしやくとに打克うちがつことが出来る。
それだ、その純粋な一撃だ、
それがおまへの生涯の全部だ。
わたしはおまへの掌てのひらが
獅子ししの児このやうに打つた
鋭い一撃の痛さの下もとで
かう云いふ白金はくきんの予感を覚えて嬉うれしかつた。
そして同時に、おまへと共通の力が
母自身にも潜ひそんでゐるのを感じて、
わたしはおまへの打つた頬ほも
打たない頬ほまでも※あつ[#「執/れんが」、U+24360、127-上-12]くなつた。
おまへは何なにも意識して居なかつたであらう、
そして直すぐに忘れてしまつたであらう。
けれど、おまへが大人になつて、
思想する時にも、働く時にも、
恋する時にも、戦ふ時にも、
これを取り出してお読み。
二歳ふたつになる可愛かはいいアウギユストよ、
おまへのために書いて置く、
おまへが今日けふはじめて
おまへの母の頬ほを打つたことを。

猶なほかはいいアウギユストよ、
おまへは母の胎たいに居て
欧羅巴ヨオロツパを観みてあるいたんだよ。
母と一所いつしよにしたその旅の記憶を
おまへの成人するにつれて
おまへの叡智が思ひ出すであらう。
ミケル・アンゼロやロダンのしたことも、
ナポレオンやパスツウルのしたことも、
それだ、その純粋な一撃だ、
その猛猛たけ/″\しい恍惚くわうこつの一撃だ。[#「一撃だ。」は底本では「一撃だ、」]
(一九一四年十一月二十日)


日曜の朝飯

さあ、一所いつしよに、我家うちの日曜の朝の御飯。
(顔を洗うた親子八人はちにん、)
みんなが二つのちやぶ台を囲みませう、
みんなが洗ひ立ての白い胸布セル※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ツトを当てませう。
独り赤さんのアウギユストだけは
おとなしく母さんの膝ひざの横に坐すわるのねえ。
お早う、
お早う、
それ、アウギユストもお辞儀をしますよ、お早う、
何時いつもの二斤にきんの仏蘭西麺包フランスパンに
今日けふはバタとジヤムもある、
三合の牛乳ちちもある、
珍しい青豌豆えんどうの御飯に、
参州さんしう味噌の蜆しゞみ汁、
うづら豆、
それから新漬しんづけの蕪菁かぶもある。
みんな好きな物を勝手におあがり、
ゆつくりとおあがり、
たくさんにおあがり。
朝の御飯は贅沢ぜいたくに食べる、
午ひるの御飯は肥こえるやうに食べる、
夜よるの御飯は楽たのしみに食べる、
それは全まつたく他人よそのこと。
我家うちの様な家いへの御飯はね、
三度が三度、
父さんや母さんは働く為ために食べる、
子供のあなた達は、よく遊び、
よく大きくなり、よく歌ひ、
よく学校へ行ゆき、本を読み、
よく物を知るやうに食べる。
ゆつくりおあがり、
たくさんにおあがり。
せめて日曜の朝だけは
父さんや母さんも人並に
ゆつくりみんなと食べませう。
お茶を飲んだら元気よく
日曜学校へお行ゆき、
みんなでお行ゆき。
さあ、一所いつしよに、我家うちの日曜の朝の御飯。


駆け出しながら

いいえ、いいえ、現代の
生活と芸術に、
どうして肉ばかりでゐられよう、
単純な、盲目めくらな、
そしてヒステリツクな、
肉ばかりでゐられよう。
五感が七しち感に殖ふえる、
いや、五十ごじつ感、百感にも殖ふえる。
理性と、本能と、
真と、夢と、徳とが手を繋つなぐ。
すべてが細かに実みが入いつて、
すべてが千千ちぢに入いりまじり、
突風とつぷうと火の中に
すべてが急に角かくを描かく。
芸も、思想も、戦争も、
国も、個人も、宗教も、
恋も、政治も、労働も、
すべてが幾何学的に合あはされて、
神秘な踊をどりを断たえず舞ふ
大だい建築に変り行ゆく。
ほんに、じつとしてはゐられぬ、
わたしも全身を投げ出して、
踊ろ、踊ろ。
踊つて止やまぬ殿堂の
白と赤との大理石マルブルの
人像柱クリアテイイドの一本に
諸手もろてを挙げて加はらう。
阿片あへんが燻いぶる……
発動機モツウルが爆はぜる……
楽がくが裂ける……


三つの路

わが出いでんとする城の鉄の門に
斯かくこそ記しるされたれ。
その字の色は真紅しんく、
恐らくは先さきに突破せし人の
みづから指を咬かめる血ならん。
「生くることの権利と、
其そのための一切の必要。」
われは戦慄せんりつし且かつ躊躇ためらひしが、
やがて微笑ほゝゑみて頷うなづきぬ。
さて、すべて身に著つけし物を脱ぎて
われを逐おひ来きたりし人人ひとびとに投げ与へ、
われは玲瓏れいろうたる身一つにて逃のがれ出いでぬ。
されど一歩して
ほつと呼吸いきをつきし時、
あはれ目に入いるは
万里一白いつぱくの雪の広野ひろの……
われは自由を得たれども、
わが所有は、この刹那せつな、
否いな、永劫えいごふ[#ルビの「えいごふ」は底本では「えいがふ」]に、
この繊弱かよわき身一つの外ほかに無かりき。
われは再び戦慄せんりつしたれども、
唯ただ一途いちづに雪の上を進みぬ。
三日みつかの後のち
われは大いなる三つの岐路きろに出いでたり。
ニイチエの過ぎたる路みち、
トルストイの過ぎたる路みち、
ドストイエフスキイの過ぎたる路みち、
われは其その何いづれをも択えらびかねて、
沈黙と逡巡しゆんじゆんの中に、
暫しばらく此処ここに停とゞまりつつあり。
わが上の太陽は青白く、
冬の風四方よもに吹きすさぶ……


錯誤

両手にて抱いだかんとし、
手の先にて掴つかまんとする我等よ、
我等は過あやまちつつあり。

手を揚げて、我等の
抱いだけるは空くうの空くう、
我等の掴つかみたるは非我ひが。

唯ただ我等を疲れしめて、
すべて滑すべり、
すべて逃のがれ去る。

いでや手の代りに
全身を拡げよ、
我等の所有は此内このうちにこそあれ。

我を以もつて我を抱いだけよ。
我を以もつて我を掴つかめ、
我に勝まさる真実は無し。


途上

友よ、今ここに
我世わがよの心を言はん。
我は常に行ゆき著つかで
途みちの半なかばにある如ごとし、
また常に重きを負ひて
喘あへぐ人の如ごとし、
また寂さびしきことは
年長としたけし石婦うまずめの如ごとし。
さて百千の段ある坂を
我はひた登りに登る。
わが世の力となるは
後ろより苛さいなむ苦痛なり。
われは愧はづ、
静かなる日送りを。
そは怠惰と不純とを編める
灰色の大網おほあみにして、
黄金わうごんの時を捕とらへんとしながら、
獲うる所は疑惑と悔くいのみ。
我が諸手もろては常に高く張り、
我が目は常に見上げ、
我が口は常に呼び、
我が足は常に急ぐ。
されど、友よ、
ああ、かの太陽は遠し。


旅行者

霧の籠こめた、太洋たいやうの離れ島、
此島このしまの街はまだ寝てゐる。
どの茅屋わらやの戸の透間すきまからも
まだ夜よるの明りが日本酒色いろを洩もらしてゐる。
たまたま赤んぼの啼なく声はするけれど、
大人は皆たわいもない[#「たわいもない」は底本では「たはいもない」]夢に耽ふけつてゐる。

突然、入港の号砲を轟とゞろかせて
わたし達は夜中よなかに此処ここへ著ついた。
さうして時計を見ると、今、
陸の諸国でもう朝飯あさはんの済んだ頃ころだ、
わたし達はまだホテルが見附みつからない。
まだ兄弟の誰たれにも遇あはない。

年ねんぢゆう[#「年ぢゆう」は底本では「年ぢう」]旅してゐるわたし達は
世界を一つの公園と見てゐる。
さうして、自由に航海しながら、
なつかしい生れ故郷の此島このしまへ帰つて来た。
島の人間は奇怪な侵入者、
不思議な放浪者バガボンド[#ルビの「バガボンド」は底本では「バカホンド」]だと罵のゝしらう。

わたし達は彼等を覚さまさねばならない、
彼等を生せいの力に溢あふれさせねばならない。
よその街でするやうに、
飛行機と露西亜ロシアバレエの調子で
彼等と一所いつしよに踊らねばならない、
此島このしまもわたし達の公園の一部である。


何かためらふ

何なにかためらふ、内気なる
わが繊弱かよわなるたましひよ、
幼児をさなごのごと慄わなゝきて
な言ひそ、死をば避けましと。

正しきに就つけ、たましひよ、
戦へ、戦へ、みづからの
しあはせのため、悔ゆるなく、
恨むことなく、勇みあれ。

飽くこと知らぬ口にこそ
世の苦しみも甘からめ。
わがたましひよ、立ち上がり、
生せいに勝たんと叫べかし。


真実へ

わが暫しばらく立ちて沈吟ちんぎんせしは
三筋みすぢある岐わかれ路みちの中程なかほどなりき。
一つの路みちは崎嶇きくたる
石山いしやまの巓いたゞきに攀よぢ登り、
一つの路みちは暗き大野の
扁柏いとすぎの森の奥に迷ひ、
一つの路みちは河に沿ひて
平沙へいしやの上を滑すべり行ゆけり。

われは幾度いくたびか引返さんとしぬ、
来こし方かたの道には
人間にんげん三月さんぐわつの花開き、
紫の霞かすみ、
金色こんじきの太陽、
甘き花の香か、
柔かきそよ風、
われは唯ただ幸ひの中に酔ゑひしかば。

されど今は行ゆかん、
かの高き石山いしやまの彼方かなた、
あはれ其処そこにこそ
猶なほ我を生かす路みちはあらめ。
わが願ふは最早もはや安息にあらず、
夢にあらず、思出おもひでにあらず、
よしや、足に血は流るとも、
一歩一歩、真実へ近づかん。


森の大樹

ああ森の巨人、
千年の大樹だいじゆよ、
わたしはそなたの前に
一人ひとりのつつましい自然崇拝教徒である。

そなたはダビデ王のやうに
勇ましい拳こぶしを上げて
地上の赦ゆるしがたい
何なんの悪を打たうとするのか。
また、そなたはアトラス王が
世界を背中に負つてゐるやうに、
かの青空と太陽とを
両手で支へようとするのか。

そしてまた、そなたは
どうやら、心の奥で、
常に悩み、
常にじつと忍んでゐる。
それがわたしに解わかる、
そなたの鬱蒼うつさうたる枝葉えだはが
休む間ま無しに汗を流し、
休む間ま無しに戦わなゝくので。
さう思つてそなたを仰ぐと、
希臘ギリシヤ闘士の胴のやうな
そなたの逞たくましい幹が
全世界の苦痛の重さを
唯ただひとりで背負つて、
永遠の中に立つてゐるやうに見える。

或ある時、風と戦つては
そなたの梢こづゑは波のやうに逆立さかだち、
荒海あらうみの響ひゞきを立てて
勝利の歌を揚げ、
また或ある時、積む雪に圧おされながらも
そなたの目は日光の前に赤く笑つてゐる。

千年の大樹だいじゆよ、
蜉蝣ふいうの命を持つ人間のわたしが
どんなにそなたに由よつて
元気づけられることぞ。
わたしはそなたの蔭かげを踏んで思ひ、
そなたの幹を撫なでて歌つてゐる。

ああ、願はくは、死後にも、
わたしはそなたの根方ねがたに葬られて、
そなたの清らかな樹液セエヴと
隠れた※あつ[#「執/れんが」、U+24360、137-下-2]い涙とを吸ひながら、
更にわたしの地下の
飽くこと知らぬ愛情を続けたい。

なつかしい大樹だいじゆよ、
もう、そなたは森の中に居ない、
常にわたしの魂たましひの上に
爽さわやかな広い蔭かげを投げてゐる。


我は雑草

森の木蔭こかげは日に遠く、
早く涼しくなるままに、
繊弱かよわく低き下草したくさは
葉末はずゑの色の褪あせ初そめぬ。

われは雑草、しかれども
猶なほわが欲を煽あふらまし、
もろ手を延のべて遠ざかる
夏の光を追ひなまし。

死なじ、飽くまで生きんとて、
みづから恃たのむたましひは
かの大樹だいじゆにもゆづらじな、
われは雑草、しかれども。


子供の踊(唱歌用として)

踊をどり、
踊をどり、
桃と桜の
咲いたる庭で、
これも花かや、紫に
円まるく輪を描かく子供の踊をどり。

踊をどり、
踊をどり、
天をさし上げ、
地を踏みしめて、
みんな凛凛りゝしい身の構へ、
物に怖おそれぬ男の踊をどり。

踊をどり、
踊をどり、
身をば斜めに
袂たもとをかざし、
振れば逆さからふ風かぜも無い、
派手に優しい女の踊をどり。

踊をどり、
踊をどり、
鍬くはを執とる振ふり、
糸引く姿、
そして世の中いつまでも
円まるく輪を描かく子供の踊をどり。


砂の上

「働く外ほかは無いよ、」
「こんなに働いてゐるよ、僕達は、」
威勢のいい声が
頻しきりに聞きこえる。
わたしは其その声を目当めあてに近寄つた。
薄暗い砂の上に寝そべつて、
煙草たばこの煙を吹きながら、
五六人の男が[#「男が」は底本では「男か」]
おなじやうなことを言つてゐる。

わたしもしよざいが無いので、
「まつたくですね」と声を掛けた。
すると、学生らしい一人ひとりが
「君は感心な働き者だ、
女で居ながら、」
斯かうわたしに言つた。
わたしはまだ働いたことも無いが、
褒ほめられた嬉うれしさに
「お仲間よ」と言ひ返した。

けれども、目を挙げると、
その人達の塊かたまりの向うに、
夜よるの色を一層濃くして、
まつ黒黒くろぐろと
大勢の人間が坐すわつてゐる。
みんな黙つて俯うつ向き、
一秒の間まも休まず、
力いつぱい、せつせと、
大きな網を編んでゐる。


三十女の心

三十女さんじふをんなの心は
陰影かげも、煙けぶりも、
音も無い火の塊かたまり、
夕焼ゆふやけの空に
一輪真赤まつかな太陽、
唯ただじつと徹てつして燃えてゐる。


わが愛欲

わが愛欲は限り無し、
今日けふのためより明日あすのため、
香油をぞ塗る、更に塗る。
知るや、知らずや、恋人よ、
この楽しさを告げんとて
わが唇を君に寄す。


今夜の空

今夜の空は血を流し、
そして俄にはかに気の触れた
嵐あらしが長い笛を吹き、
海になびいた藻ものやうに
断たえずゆらめく木の上を、
海月くらげのやうに青ざめた
月がよろよろ泳ぎゆく。


日中の夜

真昼のなかに夜よるが来た。
空を行ゆく日は青ざめて
氷のやうに冷えてゐる。
わたしの心を通るのは
黒黒くろぐろとした蝶てふのむれ。


人に

新たに活いけた薔薇ばらながら
古い香りを立ててゐる。
初めて聞いた言葉にも
昨日きのふの声がまじつてる。
真実心しんじつしんを見せたまへ。


寂寥

ほんに寂さびしい時が来た、
驚くことが無くなつた。
薄くらがりに青ざめて、
しよんぼり独り手を重ね、
恋の歌にも身が入いらぬ。


自省

あはれ、やうやく我心わがこゝろ
怖おそるることを知り初そめぬ、
たそがれ時の近づくに。
否いなとは云いへど、我心わがこゝろ
あはれ、やうやくうら寒し。


山の動く日

山の動く日きたる、
かく云いへど、人これを信ぜじ。
山はしばらく眠りしのみ、
その昔、彼等みな火に燃えて動きしを。
されど、そは信ぜずともよし、
人よ、ああ、唯ただこれを信ぜよ、
すべて眠りし女、
今ぞ目覚めざめて動くなる。


一人称

一人称にてのみ物書かばや、
我は寂さびしき片隅の女ぞ。
一人称にてのみ物書かばや、
我は、我は。


乱れ髪

額ひたひにも、肩にも、
わが髪ぞほつるる。
しほたれて湯滝ゆだきに打たるる心もち……
ほつとつく溜息ためいきは火の如ごとく且かつ狂ほし。
かかること知らぬ男、
我を褒ほめ、やがてまた譏そしるらん。


薄手の鉢

われは愛めづ、新しき薄手うすでの白磁の鉢を。
水もこれに湛たたふれば涙と流れ、
花もこれに投げ入いるれば火とぞ燃ゆる。
恐るるは粗忽そこつなる男の手に砕けんこと、
素焼の土器よりも更に脆もろく、かよわく……


剃刀

青く、且かつ白く、
剃刀かみそりの刄はのこころよきかな。
暑き草いきれにきりぎりす啼なき、
ハモニカを近所の下宿にて吹くは憂うたて[#「憂たて」は底本では「憂れた」]けれども、
我が油じみし櫛笥くしげの底をかき探れば、
陸奥紙みちのくがみに包みし細身の剃刀かみそりこそ出いづるなれ。


煙草

にがきか、からきか、煙草たばこの味。
煙草の味は云いひがたし。
甘うまきぞと云いはば、粗忽そこつ者、
蜜みつ、砂糖の類たぐひと思はん。
我は近頃ちかごろ煙草たばこを喫のみ習へど、
喫のむことを人に秘めぬ。
蔭口かげぐちに、男に似ると云いはるるはよし、
唯ただ恐る、かの粗忽そこつ者こそ世に多けれ。


「鞭むちを忘るな」と
ヅアラツストラは云いひけり。
「女こそ牛なれ、羊なれ。」
附つけ足して我ぞ云いはまし、
「野に放はなてよ」


大祖母の珠数

わが祖母の母は我が知らぬ人なれども、
すべてに華奢きやしやを好みしとよ。
水晶の珠数じゆずにも倦あき、珊瑚さんごの珠数じゆずにも倦あき、
この青玉せいぎよくの珠数じゆずを爪繰つまぐりしとよ。
我はこの青玉せいぎよくの珠数じゆずを解きほぐして、
貧しさに与ふべき玩具おもちやなきまま、
一つ一つ我が子等こらの手にぞ置くなる。


我歌

わが歌の短ければ、
言葉を省くと人思へり。
わが歌に省くべきもの無し、
また何なにを附つけ足さん。
わが心は魚うをならねば鰓えらを持たず、
唯ただ一息にこそ歌ふなれ。


すいつちよ

すいつちよよ、すいつちよよ、
初秋はつあきの小ちさき篳篥ひちりきを吹くすいつちよよ、
その声に青き蚊帳かやは更に青し。
すいつちよよ、なぜに声をば途切らすぞ、
初秋はつあきの夜よの蚊帳かやは錫箔すゞはくの如ごとく冷たきを……
すいつちよよ、すいつちよよ。


油蝉

あぶら蝉ぜみの、じじ、じじと啼なくは
アルボオス石鹸しやぼんの泡なり、
慳貪けんどんなる商人あきびとの方形はうけいに開ひらく大口おほぐちなり、
手掴てづかみの二銭銅貨なり、
いつの世もざらにある芸術の批評なり。


雨の夜

夏の夜よのどしやぶりの雨……
わが家いへは泥田どろたの底となるらん。
柱みな草の如ごとくに撓たわみ、
それを伝ふ雨漏りの水は蛇の如ごとし。
寝汗の香か……哀れなる弱き子の歯ぎしり……
青き蚊帳かやは蛙かへるの喉のどの如ごとくに膨ふくれ、
肩なる髪は眼子菜ひるむしろのやうに戦そよぐ。
このなかに青白き我顔わがかほこそ
芥あくたに流れて寄れる月見草つきみさうの蕊しべなれ。


間問題

相共あひともにその自みづからの力を試さぬ人と行ゆかじ、
彼等の心には隙すきあり、油断あり。
よしもなき事ども――
善悪と云いふ事どもを思へるよ。


現実

過去はたとひ青き、酸すき、充みたざる、
如何いかにありしとも、
今は甘きか、匂にほはしきか、
今は舌を刺す力あるか、無きか、
君よ、今の役に立たぬ果実このみを摘むなかれ。


饗宴

商人あきびとらの催せる饗宴きやうえんに、
我の一人ひとりまじれるは奇異ならん、
我の周囲は目にて満ちぬ。
商人あきびとらよ、晩餐ばんさんを振舞へるは君達なれど、
我の食らふは猶なほ我の舌の味あぢはふなり。
さて、商人あきびとらよ、
おのおの、その最近の仕事に就ついて誇りかに語れ、
我はさる事をも聴くを喜ぶ。


歯車

かの歯車は断間たえまなく動けり、
静かなるまでいと忙せはしく動けり、
彼かれに空むなしき言葉無し、
彼かれのなかに一切を刻むやらん。


異性

すべて異性の手より受取るは、
温かく、やさしく、匂にほはしく、派手に、
胸の血の奇あやしくもときめくよ。
女のみありて、
女の手より女の手へ渡る物のうら寂さびしく、
冷たく、力なく、
かの茶人ちやじんの間あひだに受渡す言葉の如ごとく
寒くいぢけて、質素ぢみ[#ルビの「ぢみ」は底本では「じみ」]なるかな。
このゆゑに我は女の味方ならず、
このゆゑに我は裏切らぬ男を嫌ふ。
かの袴はかまのみけばけばしくて
寂さびしげなる女のむれよ、
かの傷もたぬ紳士よ。


わが心

わが心は油よ、
より多く火をば好めど、
水に附つき流るるも是非なや。


儀表ぎへう

鞣なめさざる象皮ざうひの如ごとく、
受精せざる蛋たまごの如ごとく、
胎たいを出いでて早くも老おいし顔する駱駝らくだの子の如ごとく、
目を過ぐるもの、凡およそこの三種みくさを出いでず。
彼等は此この国の一流の人人ひとびとなり。


白蟻

白蟻しろありの仔虫しちうこそいたましけれ、
職虫しよくちうの勝手なる刺激に由より、
兵虫へいちうとも、生殖虫とも、職虫しよくちうとも、
即すなはち変へらるるなり。
職虫しよくちうの勝手なる、無残なる刺激は
陋劣ろうれつにも食物しよくもつをもてす。
さてまた、其等それら各種の虫の多きに過ぐれば
職虫しよくちうはやがて刺し殺して食らふとよ。

 

幻想と風景
   

曙光

今、暁あかつきの
太陽の会釈に、
金色こんじきの笑ひ
天の隅隅すみずみに降り注ぐ。

彼かれは目覚めざめたり、
光る鶴嘴つるはし
幅びろき胸、
うしろに靡なびく
空色の髪、
わが青年は
悠揚いうやうとして立ち上がる。

裸体なる彼かれが
冒険の旅は
太陽のみ知りて、
空より見て羨うらやめり。

青年の行手ゆくてには、
蒼茫さうばうたる
無辺の大地、
その上に、遥はるかに長く
濃き紫の一線
縦に、前へ、
路みちの如ごとく横たはるは、
唯ただ、彼かれの歩み行ゆく
孤独の影のみ。

今、暁あかつきの
太陽のみ
光の手を伸べて
彼かれを見送る。


大震後第一春の歌

おお大地震だいぢしんと猛火、
その急激な襲来にも
我我は堪たへた。
一難また一難、
何なんでも来こよ、
それを踏み越えて行ゆく用意が
しかと何時いつでもある。

大自然のあきめくら、
見くびつてくれるな、
人間には備はつてゐる、
刹那せつなに永遠を見通す目、
それから、上下左右へ
即座に方向転移の出来る
飛躍自在の魂たましひ。

おお此この魂たましひである、
鋼はがねの質を持つた種子たね、
火の中からでも芽をふくものは。
おお此この魂たましひである、
天の日、太洋たいやうの浪なみ、
それと共に若やかに
燃え上がり躍り上がるのは。

我我は「無用」を破壊して進む。
見よ、大自然の暴威も
時に我我の助手を勤める。
我我は「必要」を創造して進む。
見よ、溌溂はつらつたる素朴と
未曾有みぞう[#ルビの「みぞう」は底本では「みそうう」]の喜びの
精神と様式とが前に現れる。

誰たれも昨日きのふに囚とらはれるな、
我我の生活のみづみづしい絵を
塗りの剥はげた額縁に入いれるな。
手は断たえず一いちから図を引け、
トタンと荒木あらきの柱との間あひだに、
汗と破格の歌とを以もつて
かんかんと槌つちの音を響かせよ。

法外な幻想に、
愛と、真実と、労働と、
科学とを織り交ぜよ。
古臭い優美と泣虫とを捨てよ、
歴史的哲学と、資本主義と、
性別と、階級別とを超えた所に、
我我は皆自己を試さう。

新しく生きる者に
日は常に元日ぐわんじつ、
時は常に春。
百の禍わざはひも何なにぞ、
千の戦たゝかひで勝たう。
おお窓毎まどごとに裸の太陽、
軒毎のきごとに雪の解けるしづく。


元朝の富士

今、一千九百十九年の
最初の太陽が昇る。
美うつくしいパステルの
粉こな絵具に似た、
浅緑あさみどりと淡黄うすきと
菫すみれいろとの
透すきとほりつつ降り注ぐ
静かなる暁あかつきの光の中、
東の空の一端に、
天をつんざく
珊瑚紅さんごこうの熔岩ラ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)――
新しい世界の噴火……

わたしは此時このとき、
新しい目を逸そらさうとして、
思はずも見た、
おお、彼処かしこにある、
巨大なダンテの半面像シルエツトが、
巍然ぎぜんとして、天の半なかばに。

それはバルジエロの壁に描かかれた
青い冠かんむりに赤い上衣うはぎ、
細面ほそおもてに
凛凛りゝしい上目うはめづかひの
若き日の詩人と同じ姿である。
あれ、あれ、「新生」のダンテが
その優やさしく気高けだかい顔を
一いつぱいに紅あかくして微笑ほゝゑむ。

人人ひとびとよ、戦後の第一年に、
わたしと同じ不思議が見たくば、
いざ仰あふげ、共に、
朱しゆに染まる今朝けさの富士を。


伊豆の海岸にて

石垣の上に細路ほそみち、
そして、また、上に石垣、
磯いその潮で
千年の「時」が磨減すりへらした
大きな円石まろいしを
層層そうそうと積み重ねた石垣。

どの石垣の間あひだからも
椿つばきの木が生はえてゐる。
琅※(「王+干」、第3水準1-87-83)らうかんのやうな白い幹、
青銅のやうに光る葉、
小柄な支那しなの貴女きぢよが
笑つた口のやうな紅あかい花。

石垣の崩れた処ところには
山の切崖きりぎしが
煉瓦色れんがいろの肌を出し、
下には海に沈んだ円石まろいしが
浅瀬の水を透とほして
亀かめの甲のやうに並んでゐる。

沖の初島はつしまの方から
折折をりをりに風が吹く。
その度に、近い所で
小ちさい浪頭なみがしらがさつと立ち、
石垣の椿つばきが身を揺ゆすつて
落ちた花がぼたりと水に浮く。


田舎の春

正月元日ぐわんじつ、里さとずまひ、
喜びありて眺むれば、
まだ木枯こがらしはをりをりに
向ひの丘を過ぎながら
高い鼓弓こきふを鳴らせども、
軒端のきはの日ざし温かに、
ちらり、ほらりと梅が咲く。

上には晴れた空の色、
濃いお納戸なんどの支那繻子しなじゆすに、
光、光と云いふ文字を
銀糸ぎんしで置いた繍ぬひの袖そで、
春が著きて来た上衣うはぎをば
枝に掛けたか、打香うちかをり、
ちらり、ほらりと梅が咲く。


太陽出現

薄暗がりの地平に
大火の祭。
空が焦げる、
海が燃える。

珊瑚紅さんごこうから
黄金わうごんの光へ、
眩まばゆくも変りゆく
焔ほのほの舞。

曙あけぼのの雲間くもまから
子供らしい円まろい頬ほを
真赤まつかに染めて笑ふ
地上の山山。

今、焔ほのほは一ひと揺れし、
世界に降らす金粉きんぷん。
不死鳥フエニクスの羽羽はばたきだ。
太陽が現れる。


春が来た

春が来た。
せまい庭にも日があたり、
張物板はりものいたの紅絹もみのきれ、
立つ陽炎かげろふも身をそそる。

春が来た。
亜鉛とたんの屋根に、ちよちよと、
妻に焦こがれてまんまろな
ふくら雀すゞめもよい形かたち。

春が来た。
遠い旅路の良人をつとから
使つかひに来たか、見に来たか、
わたしを泣かせに唯ただ来たか。

春が来た。
朝の汁スウプにきりきざむ
蕗ふきの薹たうにも春が来た、
青いうれしい春が来た。


二月の街

春よ春、
街に来てゐる春よ春、
横顔さへもなぜ見せぬ。

春よ春、
うす衣ぎぬすらもはおらずに
二月の肌を惜をしむのか。

早く注させ、
あの大川おほかはに紫を、
其処そこの並木にうすべにを。

春よ春、
そなたの肌のぬくもりを
微風そよかぜとして軒のきに置け。

その手には
屹度きつと、蜜みつの香か、薔薇ばらの夢、
乳ちゝのやうなる雨の糸。

想おもふさへ
好よしや、そなたの贈り物、
そして恋する赤い時。

春よ春、
おお、横顔をちらと見た。
緑の雪が散りかかる。


我前に梅の花

わが前に梅の花
淡うすき緑を注さしたる白、
ルイ十四世じふしせの白、
上には瑠璃るり色の
支那絹しなぎぬの空、
目も遥はるに。

わが前に梅の花
心は今、
白金はくきんの巣に
香かに酔ゑふ小鳥、
ほれぼれと、一節ひとふし、
高音たかねに歌はまほし。

わが前に梅の花
心は更に、
空想の中なる、
羅馬ロオマを見下みおろす丘の上の、
大理石の柱廊ちゆうらう[#ルビの「ちゆうらう」は底本では「ちうらう」]に
片手を掛けたり。


紅梅

おお、ひと枝の
花屋の荷のうへの
梅の花
薄暗うすくらい長屋の隅で
ポウブルな母と娘が
つぎ貼はりした障子の中の
冬の明あかりに、
うつむいて言葉すくなく、
わづかな帛片きれと
糊のりと、鋏はさみと、木の枝と、
青ざめた指とを用ひて、
手細工てざいくに造つた花と云いはうか。
いぢらしい花よ、
涙と人工との
羽二重の赤玉あかだまを綴つゞつた花よ、
わたしは悲しい程そなたを好く。
なぜと云いふなら、
そなたの中に私がある、
私の中にそなたがある。
そなたと私とは
厳寒げんかんと北風きたかぜとに曝さらされて、
あの三月さんぐわつに先だち、
怖おそる怖おそる笑つてゐる。


新柳

空は瑠璃るりいろ、雨のあと、
並木の柳、まんまろく
なびく新芽の浅みどり。

すこし離れて見るときは、
散歩の路みちの少女をとめらが
深深ふかぶかとさす日傘パラソルか。

蔭かげに立寄り見る時は、
絵のなかに舞ふ鳳凰ほうわうの
雲より垂れた錦尾にしきをか。

空は瑠璃るりいろ、雨のあと、
並木の柳、その枝を
引けば翡翠ひすゐの露が散る。


牛込見附外

牛込見附うしごめみつけの青い色、
わけて柳のさばき髪がみ、
それが映つた濠ほりの水。

柳の蔭かげのしつとりと
黒く濡ぬれたる朝じめり。
垂れた柳とすれすれに
白い護謨輪ごむわの馳はせ去れば、
あとに我児わがこの靴のおと。

黄いろな電車を遣やりすごし、
見上げた高い神楽坂かぐらざか、
何なにやら軽かろく、人ごみに
気おくれのする快さ。

我児わがこの手からすと離れ、
風船玉だまが飛んでゆく、
軒のきから軒のきへ揚あがりゆく。


市中沙塵

柳の青む頃ころながら、
二月の風は殺気さつきだち、
都の街の其処そこここに
砂の毒瓦斯どくがす、砂の灰、
砂の地雷を噴き上げる。

よろよろとして、濠端ほりばたに
山高帽を抑おさへたる
洋服づれの逃げ足の
操人形あやつりに似る可笑をかしさを、
外目よそめに笑ふひまも無く、

さと我顔わがかほに吹きつくる
痛き飛礫つぶてに目ふさげば、
軽かろき眩暈めまひに身は傾かしぎ、
思はずにじむ涙さへ
砂の音して、あぢきなし。

二月の風の憎きかな、
乱るる裾すそは手に取れど、
髪も袂たもとも鍋鶴なべづるの
灰色したる心地して、
砂の煙けぶりに羽羽はばたきぬ。


弥生の歌

にはかに人の胸を打つ
高い音ねじめの弥生やよひかな、
支那しなの鼓弓こきうの弥生やよひかな。

かぼそい靴を爪立つまだてて
くるりと旋めぐる弥生やよひかな、
露西亜ロシアバレエの弥生やよひかな。

薔薇ばらに並んだチユウリツプ、
黄金きん[#ルビの「きん」は底本では「ん」]」と白との弥生やよひかな、
ルイ十四世じふしせいの弥生やよひかな。


四月の太陽

ああ、今やつと目の醒さめた
はればれとせぬ、薄い黄の
メランコリツクの太陽よ、
霜、氷、雪、北風の
諒闇りやうあんの日は過ぎたのに、
永く見詰めて寝通ねとほした
暗い一間ひとまを脱け出して、
柳並木の河岸かし通どほり
塗り替へられた水色の
きやしやな露椅子バンクに腰を掛け、
白い諸手もろてを細杖ほそづゑの
銀の把手とつてに置きながら、
風を怖おそれて外套ぐわいたうの
淡うすい焦茶の襟を立て、
病やまひあがりの青ざめた
顔を埋うづめて下を向く
若い男の太陽よ。
しかし早くも、美うつくしい
うすくれなゐの微笑ほゝゑみは
太陽の頬ほにさつと照り、
掩おほひ切れざる喜びの
底ぢからある目差まなざしは
金きんの光をちらと射る。
あたりを見れば、桃さくら、
エリオトロオプ、チユウリツプ、
小町こまち娘を選よりぬいた
花の踊りの幾むれが
春の歌をば口口くちぐちに
細い腕かひなをさしのべて、
ああ太陽よ、新しく
そなたを祝ふ朝が来た。
もとより若い太陽に
春は途中の駅しくなれば、
いざ此処ここにして胸を張り
全身の血を香らせて
花と青葉を呼吸せよ、
いざ魂たましひをすこやかに
はた清くして、晶液しやうえきの
滴したゝる水に身を洗へ。
やがて、そなたの行先ゆくさきは
すべての溝が毒に沸わき、
すべての街が悪に燃え、
腐れた匂にほひ、※あつ[#「執/れんが」、U+24360、165-上-4]い気息いき、
雨と洪水、黴かびと汗、
蠕虫うじ[#ルビの「うじ」は底本では「うぢ」]、バクテリヤ、泥と人、
其等それらの物の入いりまじり、
濁り、泡立ち、咽むせ返る
夏の都を越えながら、
汚けがれず、病まず、悲かなしまず、
信と勇気の象形うらかたに
細身の剣と百合ゆりを取り、
ああ太陽よ、悠揚いうやうと
秋の野山に分け入いれよ、
其処そこにそなたの唇は
黄金きんの果実このみに飽くであろ。


雑草

雑草こそは賢けれ、
野にも街にも人の踏む
路みちを残して青むなり。

雑草こそは正しけれ、
如何いかなる窪くぼも平たひらかに
円まろく埋うづめて青むなり。

雑草こそは情なさけあれ、
獣けもののひづめ、鳥の脚あし、
すべてを載せて青むなり。

雑草こそは尊たふとけれ、
雨の降る日も、晴れし日も、
微笑ほゝゑみながら青むなり。


桃の花

すくすく伸びた枝毎えだごとに
円まろくふくらむ好よい蕾つぼみ。
若い健気けなげな創造の
力に満ちた桃の花。

この世紀から改まる
女ごころの譬たとへにも
私は引かう、華やかに
この美うつくしい桃の花。

ひと目見るなり、太陽も、
風も、空気も、人の頬ほも、
さつと真赤まつかに酔ゑはされる
愛と匂にほひの桃の花。

女の明日あすの※情ねつじやう[#「執/れんが」、U+24360、166-下-6]が
世をば平和にする如ごとく、
今日けふの世界を三月さんぐわつの
絶頂に置く桃の花。


春の微風

ああ三月さんぐわつのそよかぜ
蜜みつと、香かと、日光とに
そのたをやかな身を浸して、
春の舞台に登るそよかぜ

そなたこそ若き日の初恋の
あまき心を歌ふ序曲なれ。
たよたよとして微触ほのかなれども、
いと長きその喜びは既に溢あふる。

また、そなたこそ美しきジユリエツトの
ロメオに投げし燃ゆる目なれ。
また、フランチエスカとパウロとの[#「パウロとの」は底本では「バウロとの」]
額ぬか寄せて心酔ゑひつつ読みし書ふみなれ。

ああ三月さんぐわつのそよかぜ
今、そなたの第一の微笑ほゝゑみに、
人も、花も、胡蝶こてふも、
わなわなと胸踊る、胸踊る。


桜の歌

花の中なる京をんな、
薄花うすはなざくら眺むれば、
女ごころに晴れがまし。

女同士とおもへども、
女同士の気安さの
中に何なにやら晴れがまし。

春の遊びを愛めづる君、
知り給たまへるや、この花の
分けていみじき一時ひとときを。

日は今西に移り行ゆき、
知り給たまへるや、木こがくれて、
青味を帯びしひと時を。

日は今西に移り行ゆき、
静かに霞かすむ春の昼、
花は泣かねど人ぞ泣く。


緋桜ひざくら

赤くぼかした八重ざくら、
その蔭かげゆけば、ほんのりと、
歌舞伎かぶき芝居に見るやうな
江戸の明あかりが顔にさし、
ひと枝折れば、むすめ気ぎの、
おもはゆながら、絃いとにつれ、
何なにか一ひとさし舞ひたけれ。

さてまた小雨こさめふりつづき、
目を泣き脹はらす八重ざくら、
その散りがたの艶いろめけば、
豊國とよくにの絵にあるやうな、
繻子じゆすの黒味の落ちついた
昔の帯をきゆうと締め、
身もしなやかに眺めばや。


春雨

工場こうばの窓で今日けふ聞くは
慣れぬ稼かせぎの涙雨なみだあめ、
弥生やよひと云いへど、美うつくしい
柳の枝に降りもせず、
煉瓦れんがの塀や、煙突や、
トタンの屋根に濡ぬれかかり、
煤すゝと煙を溶ときながら、
石炭殻がらに沁しんでゆく。
雨はいぢらし、思ひ出す、
こんな雨にも思ひ出す、
母がこと、また姉がこと、
そして門田かどたのれんげ草。


薔薇の歌(八章)

賓客まらうど[#ルビの「まらうど」は底本では「まろうど」]よ、
いざ入いりたまへ、
否いな、しばし待ちたまへ、
その入口いりくちの閾しきゐに。

知りたまふや、賓客まらうどよ、
ここに我心わがこゝろ
幸運の俄にはかに来きたれる如ごとく、
いみじくも惑へるなり。

なつかしき人、
今、われに
これを得させたまへり、
一抱ひとかゝへのかずかずの薔薇ばら。

如何いかにすべきぞ、
この堆うづたかき
めでたき薔薇ばらを、
両手もろでに余る薔薇ばらを。

この花束のままに[#「花束のままに」は底本では「花束のまにまに」]
太き壺つぼにや活いけん、
とりどりに
小ちさき瓶かめにや分わかたん。

先まづ、何なにはあれ、
この薄黄うすきなる大輪たいりんを
賓客まらうどよ、
君が掌てのひらに置かん。

花に足る喜びは、
美うつくしきアントニオを載せて
羅馬ロオマを船出ふなでせし
クレオパトラも知らじ。

まして、風流ふうりうの大守たいしゆ、
十二の金印きんいんを佩おびて、
楊州やうしうに下くだる楽たのしみは
言ふべくも無し。

いざ入いりたまへ、
今日けふこそ我が仮の家いへも、
賓客まらうどよ、君を迎へて、
飽かず飽かず語らまほしけれ。
    ×
一つの薔薇ばらの瓶かめは
梅原さんの
寝たる女の絵の前に置かん。
一つの薔薇ばらの瓶かめは
ロダンの写真と
並べて置かん。
一つの薔薇ばらの瓶かめは
君と我との
間あひだの卓に置かん。
さてまた二つの薔薇ばらの瓶かめは
子供達の
部屋部屋に分けて置かん。
あとの一つの瓶かめは
何処いづこにか置くべき。
化粧けはひの間まにか、
あの粗末なる鏡に
影映らば
花のためにいとほし。
若き藻風さうふうの君の
来たまはん時のために、
客間の卓の
葉巻の箱に添へて置かん。
    ×
今日けふ、わが家いへには
どの室しつにも薔薇ばらあり。
我等は生きぬ、
香味かうみと、色と、
春と、愛と、
光との中に。

なつかしき博士はかせ夫人、
その花園はなぞのの薔薇ばらを、
朝露あさつゆの中に摘みて、
かくこそ豊かに
贈りたまひつれ。
どの室しつにも薔薇ばらあり。

同じ都に住みつつ、
我は未いまだその君を
まのあたり見ざれど、
匂にほはしき御心みこころの程は知りぬ、
何時いつも、何時いつも、
花を摘みて賜たまへば。
    ×
われは宵より
暁あかつきがたまで
書斎にありき。
物書くに筆躍りて
狂ほしくはずむ心は
※病ねつびやう[#「執/れんが」、U+24360、172-下-7]の人に似たりき。
振返れば、
隅なる書架の上に、
博士はかせ夫人の賜たまへる
焔ほのほの色の薔薇ばらありき。
思はずも、我は
手を伸べて叫びぬ、
「おお、我が待ちし
七つの太陽は其処そこに」と。
    ×
今朝けさ、わが家いへの
どの室しつの薔薇ばらも、
皆、唇なり。
春の唇、
本能の唇、
恋人の唇、
詩人の唇、
皆、微笑ほゝゑめる唇なり、
皆、歌へる唇なり。
    ×
あはれ、何なんたる、
若やかに、
好色好色すきずきしき
微風そよかぜならん。
青磁の瓶かめの蔭かげに
宵より忍び居て、
この暁あかつき、
大輪たいりんの薔薇ばらの
仄ほのかに落ちし
真赤まつかなる
一片ひとひらの下もとに、
あへなくも圧おされて、
息を香かに代へぬ。
    ×
瓶毎かめごとに
わが侍かしづき護まもる
宝玉はうぎよくの如ごとき
めでたき薔薇ばら、
天あまつ日の如ごとき
盛りの薔薇ばら、
恋知らぬ天童てんどうの如ごとき
清らなる薔薇ばら、
これらの花よ、
人間の身の
われ知りぬ、
及び難がたしと。

此処ここに
われに親しきは、
肉身の深き底より
已やむに已やまれず
燃えあがる※情ねつじやう[#「執/れんが」、U+24360、174-上-12]の
其それにひとしき紅あかき薔薇ばら、
はた、逸早いちはやく
愁うれひを知るや、
青ざめて、
月の光に似たる薔薇ばら、
深き疑惑に沈み入いる
烏羽玉うはたまの黒き薔薇ばら。
    ×
薔薇ばらがこぼれる。
ほろりと、秋の真昼、
緑の四角な瓶かめから
卓の上へ静かにこぼれる。
泡のやうな塊かたまり、
月の光のやうな線、
ラフワエルの花神フロラの絵の肉色にくいろ。
つつましやかな薔薇ばらは
散る日にも悲しみを秘めて、
修道院の壁に凭よる
尼達のやうには青ざめず、
清く貴あてやかな処女の
高い、温かい寂さびしさと、
みづから抑おさへかねた妙香めうかうの
金色こんじきをした雰囲気アトモスフエエルとの中に、
わたしの書斎を浸してゐる。
    ×
まあ華やかな、
けだかい、燃え輝いた、
咲きの盛りの五月ごぐわつの薔薇ばら。
どうして来てくれたの、
このみすぼらしい部屋へ、
この疵きずだらけの卓テエブルの上へ、
薔薇ばらよ、そなたは
どんな貴女きぢよの飾りにも、
どんな美しい恋人の贈物にも、
ふさはしい最上の花である。
もう若さの去つた、
そして平凡な月並の苦労をしてゐる、
哀れな忙せはしい私が
どうして、そなたの友であらう。
人間の花季はなどきは短い、
そなたを見て、私は
今ひしひしと是これを感じる。
でも、薔薇ばらよ、
私は窓掛を引いて、
そなたを陰影かげの中に置く。
それは、あの太陽に
そなたを奪はせないためだ、
猶なほ、自分を守るやうに、
そなたを守りたいためだ。


牡丹の歌

おお、真赤まつかなる神秘の花、
天啓の花、牡丹ぼたん。
ひとり地上にありて
かの太陽の心を知れる花、牡丹ぼたん。
愛の花、※ねつ[#「執/れんが」、U+24360、176-上-8]の花、
幻想の花、焔ほのほの花、牡丹ぼたん。
コンテツス・ド・ノワイユを、
ルノワアルを、梅蘭芳メイランフワンを、
梅原龍三郎りようざぶらうを連想する花、牡丹ぼたん。

おお、そなたは、また、
宇宙の不思議に酔ゑへる哲人の
歓喜だいくわんぎを示す記号アンブレエム、牡丹ぼたん。
また詩人が常に建つる
※情ねつじやう[#「執/れんが」、U+24360、176-下-5]の宝楼はうろうの
柱頭ちゆうとう[#ルビの「ちゆうとう」は底本では「ちうとう」]を飾る火焔模様、牡丹ぼたん。
また、青春の秘経ひきやうの奥に
愛と栄華を保証する
運命の黄金きんの大印たいいん、牡丹ぼたん。

おお、そなたは、また、
新しき思想が我に差出す
甘き接吻ベエゼの唇、牡丹ぼたん。
我は狂ほしき眩暈めまひの中に
そを受けぬ、そを吸ひぬ、
※あつ[#「執/れんが」、U+24360、177-上-1]き、※あつ[#「執/れんが」、U+24360、177-上-1]きヒユウマニズムの唇、牡丹ぼたん。
おお、今こそ目を閉ぢて見る我が奥に、
そなたは我が愛、我が心臓、
我が真赤まつかなる心の花、牡丹ぼたん。


初夏はつなつ

初夏はつなつが来た、初夏はつなつは
髪をきれいに梳すき分けた
十六七の美少年。
さくら色した肉附にくづきに、
ようも似合うた詰襟つめえりの
みどりの上衣うはぎ、しろづぼん。

初夏はつなつが来た、初夏はつなつは
青い焔ほのほを沸わき立たす
南の海の精であろ。
きやしやな前歯に麦の茎
ちよいと噛かみ切り吹く笛も
つつみ難がたない火の調子。

初夏はつなつが来た、初夏はつなつは
ほそいづぼんに、赤い靴、
杖つゑを振り振り駆けて来た。
そよろと匂にほふ追風おひかぜに、
枳殻きこくの若芽、けしの花、
青梅あをうめの実も身をゆする。

初夏はつなつが来た、初夏はつなつは
五行ばかりの新しい
恋の小唄こうたをくちずさみ、
女の呼吸いきのする窓へ、
物を思へど、蒼白あをじろい
百合ゆりの陰翳かげをば投げに来た。


夏の女王

おお、暑い夏、今年の夏、
ほんとうに夏らしい夏、
不足の言ひやうのない夏、
太陽のむき出しな
心臓の皷動こどうに調子を合せて、
万物が一斉に
うんと力りきみ返り、
肺一いつぱいの息を太くつき
たらたらと汗を流し、
芽と共に花を、
花と共に香りを、
愛と共に歌を、
歌と共に踊りを、
内から投げ出さずにゐられない夏、
金色こんじきに光る夏、
真紅しんくに炎上する夏、
火の粉こを振撒ふりまく夏、
機関銃で掃射する夏、
沸騰する焼酎せうちうの夏、
乱舞する獅子頭ししかしらの夏、
かう云いふ夏のあるために
万物は目を覚さまし、
天地てんち初生しよせいの元気を復活し、
救はれる、救はれる、
沈滞と怠慢とから、
安易と姑息こそくとから、
小さな怨嗟ゑんさから、
見苦みぐるしい自己忘却から、
サンチマンタルから、
無用の論議から……
おお、密雲の近づく中の
霹靂へきれきの一音いちおん、
それが振鈴しんれいだ、
見よ、今、
赫灼かくしやくたる夏の女王ぢよわうの登場。


五月の歌

ああ、五月ごぐわつ、
そなたは、美うつくしい
季節の処女をとめ
太陽の花嫁。

そなたの為ために、
野は躑躅つゝじを、
水は杜若かきつばたを、
森は藤ふぢを捧さゝげる。

微風そよかぜも、蜜蜂みつばちも、
はた杜鵑ほとゝぎすも、
唯ただそなたを
讃ほめて歌ふ。

五月ごぐわつよ、そなたの
桃色の微笑ほゝゑみは
木蔭こかげの薔薇ばらの
花の上にもある。


五月礼讃らいさん

五月ごぐわつは好よい月、花の月、
芽の月、香かの月、色いろの月、
ポプラ、マロニエ、プラタアヌ、
つつじ、芍薬しやくやく、藤ふぢ、蘇枋すはう、
リラ、チユウリツプ、罌粟けしの月、
女の服のかろがろと
薄くなる月、恋の月、
巻冠まきかんむりに矢を背負ひ、
葵あふひをかざす京人きやうびとが
馬競うまくらべする祭月まつりづき、
巴里パリイの街の少女等をとめらが
花の祭に美うつくしい
貴あてな女王ぢよわうを選ぶ月、
わたしのことを云いふならば
シベリアを行ゆき、独逸ドイツ行ゆき、
君を慕うてはるばると
その巴里パリイまで著ついた月、
菖蒲あやめの太刀たちと幟のぼりとで
去年うまれた四男よなん目の
アウギユストをば祝ふ月、
狭い書斎の窓ごしに
明るい空と棕櫚しゆろの木が
馬来マレエの島を想おもはせる
微風そよかぜの月、青い月、
プラチナ色いろの雲の月、
蜜蜂みつばちの月、蝶てふの月、
蟻ありも蛾がとなり、金糸雀かなりやも
卵を抱いだく生うみの月、
何なにやら物に誘そゝられる
官能の月、肉の月、
ヴウヴレエ酒の、香料の、
踊をどりの、楽がくの、歌の月、
わたしを中に万物ばんぶつが
堅く抱きしめ、縺もつれ合ひ、
呻うめき、くちづけ、汗をかく
太陽の月、青海あをうみの、
森の、公園パルクの、噴水の、
庭の、屋前テラスの、離亭ちんの月、
やれ来た、五月ごぐわつ、麦藁むぎわらで
細い薄手うすでの硝杯こつぷから
レモン水すゐをば吸ふやうな
あまい眩暈めまひを投げに来た。


南風

四月の末すゑに街行ゆけば、
気ちがひじみた風が吹く。
砂と、汐気しほけと、泥の香かと、
温気うんきを混ぜた南風みなみかぜ。

細柄ほそえの日傘わが手から
気球のやうに逃げよとし、
髪や、袂たもとや、裾すそまはり
羽ばたくやうに舞ひ揚あがる。

人も、車も、牛、馬も
同じ路みち踏む都とて、
電車、自転車、監獄車、
自動車づれの狼藉らうぜきさ[#「狼藉さ」は底本では「狼籍さ」]。

鼻息荒く吼ほえながら、
人を侮り、脅おびやかし、
浮足立たたせ、周章あわてさせ、
逃げ惑はせて、あはや今、

踏みにじらんと追ひ迫り、
さて、その刹那せつな、冷ひやゝかに、
からかふやうに、勝つたよに、
見返りもせず去つて行ゆく。

そして神田の四つ辻つじに、
下駄を切らして俯うつ向いた
わたしの顔を憎らしく
覗のぞいて遊ぶ南風みなみかぜ。


五月の海

おお、海が高まる、高まる。
若い、やさしい五月ごぐわつの胸、
群青色ぐんじやういろの海が高まる。
金岡かなをかの金泥こんでいの厚さ、
光悦くわうえつの線の太さ、
寫樂しやらくの神経のきびきびしさ、
其等それらを一つに融とかして
音楽のやうに海が高まる。

さうして、その先に
美しい海の乳首ちゝくびと見える
まんまるい一点の紅あかい帆。
それを中心に
今、海は一段と緊張し、
高まる、高まる、高まる。
おお、若い命が高まる。
わたしと一所いつしよに海が高まる。


チユウリツプ

今年も五月ごぐわつ、チユウリツプ、
見る目まばゆくぱつと咲く、
猩猩緋しやう/″\ひに咲く、黄金きんに咲く、
紅べにと白とをまぜて咲く、
人に構はず派手に咲く。


五月雨

今日けふも冷たく降る雨は
白く尽きざる涙にて、
世界を掩おほふ梅雨空つゆぞらは
重たき繻子しゆすの喪もの掛布かけふ。

空は空とて悲しきか、
かなしみ多き我胸わがむねも
墨と銀との泣き交かはす
ゆふべの色に変る頃。


夏草

庭に繁しげれる雑草も
見る人によりあはれなり、
心に上のぼる雑念ざふねんも
一一いち/\見れば捨てがたし。
あはれなり、捨てがたし、
捨てがたし、あはれなり。


たんぽぽの穂

うすずみ色の梅雨空つゆぞらに、
屋根の上から、ふわふわと
たんぽぽの穂が[#「穂が」は底本では「穂か」]白く散る。

※ねつ[#「執/れんが」、U+24360、184-下-2]と笑ひを失つた
老いた世界の肌皮はだかはが
枯れて剥はがれて落ちるのか。

たんぽぽの穂の散るままに、
ちらと滑稽おどけた骸骨がいこつが
前に踊つて消えて行いく。

何なにか心の無かるべき。
ほつと気息いきをばつきながら
思ひあまりて散るならん、
梅雨つゆ[#ルビの「つゆ」は底本では「づゆ」]の晴間はれまの屋根の草。


屋根の草

一ひとむら立てる屋根の草、
何なんの草とも知らざりき。
梅雨つゆの晴間はれまに見上ぐれば、
綿より脆もろく、白髪しらがより
細く、はかなく、折折をりをりに
たんぽぽの穂がふわと散る。


五月雨と私

ああ、さみだれよ、昨日きのふまで、
そなたを憎いと思つてた。
魔障ましやうの雲がはびこつて
地を亡ほろぼそと降るやうに。

もし、さみだれが世に絶えて
唯ただ乾く日のつづきなば、
都も、山も、花園も、
サハラの沙すなとなるであろ。

恋を命とする身には
涙の添ひてうらがなし。
空を恋路にたとへなば、
そのさみだれはため涙。

降れ、しとしとと、しとしとと、
赤をまじへた、温かい
黒の中から、さみだれよ、
網形あみがたに引け、銀の糸。

ああ、さみだれよ、そなたのみ、
わが名も骨も朽ちる日に、
埋うもれた墓を洗ひ出し、
涙の手もて拭ぬぐふのは。


隅田川

隅田川
隅田川
いつ見ても
土の色して
かき濁り、
黙もくして流ながる。

今は我身わがみに
引きくらべ、
土より出たる
隅田川
隅田川
ひとしく悲し。

行ゆく人は
悪を離れず、
行ゆく水は
土を離れず。
隅田川
隅田川


朝日の前

あはれ、日の出、
山山やまやまは酔ゑへる如ごとく、
みな喜びに身を揺ゆすりて、
黄金きんと朱しゆの笑ゑまひを交かはし、
海と云いふ海は皆、
虹にじよりも眩まばゆき
黄金きんと五彩の橋を浮うかべて、
「日よ、先まづ
此処ここより過ぎたまへ」とさし招き、
さて、日の脚あしに口づけんとす。

あはれ、日の出、
万象ばんしやうは
一瞬にして、奇蹟の如ごとく
すべて変れり。
大寺おほてらの屋根に
鳩はとのむれは羽羽はばたき、
裏街に眠りし
運河のどす黒ぐろき水にも
銀と珊瑚さんごのゆるき波を揚げて、
早くも動く船あり。
人、いづこにか
静かに怠りて在り得うべき。
あはれ、日の出、
神神かうがうしき日の出、
われもまた
かの喬木けうぼくの如ごとく、
光明くわうみやう赫灼かくしやくのなかに、
高く二つの手を開ひらきて、
新しき日を抱いだかまし


虞美人草

虞美人草ぐびじんさうの散るままに、
淫たはれた風も肩先を
深く斬きられて血を浴びる。

虞美人草ぐびじんさうの散るままに、
畑はたは火焔の渠ほりとなり、
入日いりひの海へ流れゆく。

虞美人草ぐびじんさうも、わが恋も、
ああ、散るままに散るままに、
散るままにこそまばゆけれ。


罌粟の花

この草原くさはらに、誰だれであろ、
波斯ペルシヤの布の花模様、
真赤まつかな刺繍ぬひを置いたのは。

いえ、いえ、これは太陽が
土を浄きよめて世に降らす
点、点、点、点、不思議の火。

いえ、いえ、これは「水無月みなづき」が
真夏の愛を地に送る
※あつ[#「執/れんが」、U+24360、188-下-11]いくちづけ、燃ゆる星眸まみ。

いえ、いえ、これは人同志
恋に焦こがれた心臓の
象形うらかたに咲く罌粟けしの花。

おお、罌粟けしの花、罌粟けしの花、
わたしのやうに一心いつしんに
思ひつめたる罌粟けしの花。


散歩

河からさつと風が吹く。
風に吹かれて、さわさわと
大きく靡なびく原の蘆あし。

蘆あしの間あひだを縫ふ路みちの
何処どこかで人の話しごゑ、
そして近づく馬の※(「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34)だく。

小高こだかい岡をかに突き当り
路みちは左へ一廻ひとめぐり。
私は岡をかへ駈かけ上がる。

下を通るは、馬の背に
男のやうな帽を被きた
亜米利加アメリカ婦人の二人ふたりづれ。

緑を伸べた地平には、
遠い工場こうばの煙突が
赤い点をば一つ置く。


夏日礼讃

ああ夏が来た。この昼の
若葉を透とほす日の色は
ほんに酒ならペパミント
黄金きんと緑を振り注ぎ、
広く障子を開あけたれば、
子供のやうな微風そよかぜ
衣桁いかうに掛けた友染いうせんの
長い襦袢じゆばんに戯れる。

ああ夏が来た。こんな日は
君もどんなに恋しかろ、
巴里パリイの広場、街並木、
珈琲店カツフエの[#「珈琲店の」は底本では「琲珈店の」]前庭テラス、Boiボワ の池。
私も筆の手を止めて、
晴れた Seineセエヌ の濃紫こむらさき
今その水が目に浮うかび、
じつと涙に濡ぬれました。

ああ夏が来た、夏が来た。
二人ふたりの画家とつれだつて、
君と私が Amianアミアン
塔を観みたのも夏である。
二度と行ゆかれる国で無し、
私に帽をさし出した
お寺の前の乞食こじきらに
物を遣やらずになぜ来たか。


庭の草

庭いちめんにこころよく
すくすく繁しげる雑草よ、
弥生やよひの花に飽いた目は
ほれぼれとして其それに向く。
人の気づかぬ草ながら、
十三塔じふさんたふを高く立て
風の吹くたび舞ふもある。
女らしくも手を伸ばし、
誰たれを追ふのか、抱いだくのか、
上目うはめづかひに泣くもある。
五月ごぐわつのすゑの外光ぐわいくわうに
汗の香かのする全身を
香炉かうろとしつつ焚たくもある。
名をすら知らぬ草ながら、
葉の形かた見れば限り無し、
さかづきの形かた、とんぼ形がた、
のこぎりの形かた、楯たての形かた、
ペン尖さきの形かた、針の形かた。
また葉の色も限り無し、
青梅あをうめの色、鶸茶色ひわちやいろ、[#「鶸茶色、」は底本では「鶸茶色」]
緑青ろくしやうの色、空の色、
それに裏葉うらはの海の色。
青玉色せいぎよくいろに透すきとほり、
地にへばりつく或ある葉には
緑を帯びた仏蘭西フランスの
牡蠣かきの薄身うすみを思ひ出し、
なまあたたかい曇天どんてんに
細かな砂の灰が降り、
南の風に草原くさはらが
のろい廻渦うねりを立てる日は、
六む坪ばかりの庭ながら
紅海沖こうかいおきが目に浮うかぶ。


暴風

洗濯物を入れたまま
大きな盥たらひが庭を流れ、
地が俄にはかに二三尺じやくも低くなつたやうに
姫向日葵ひめひまはりの鬱金うこんの花の尖さきだけが見え、
ごむ手毬でまりがついと縁の下から出て、
潜水服を著きたお伽噺とぎばなしの怪物の顧眄みえをしながら
腐つた紅あかいダリアの花に取り縋すがる。
五六枚しめた雨戸の間間あひだあひだから覗のぞく家族の顔は
どれも栗毛くりげの馬の顔である。
雨はますます白い刄やいばのやうに横に降る。

わたしは颶風あらしにほぐれる裾すそを片手に抑おさへて、
泡立つて行ゆく濁流を胸がすく程じつと眺める。
膝ひざぼしまで水に漬つかつた郵便配達夫を
人の木が歩いて来たのだと見ると、
濡ぬれた足の儘まゝ廊下で跳をどり狂ふ子供等は
真鯉まごひの子のやうにも思はれた。
ときどき不安と驚奇きやうきとの気分の中で、
今日けふの雨のやうに、
物の評価の顛倒ひつくりかへるのは面白い。


すいつちよ

青いすいつちよよ、
青い蚊帳かやに来て啼なく青いすいつちよよ、
青いすいつちよの心では
恋せぬ昔の私と思ふらん、
寂さびしい寂さびしい私と思ふらん。
思へば和泉いづみの国にて聞いたその声も
今聞く声も変り無し、
きさくな、世よづかぬ小娘の青いすいつちよよ。

[#1行アキは底本ではなし]青いすいつちよよ、
青いすいつちよは、なぜ啼なきさして黙だまるぞ。
わたしの外ほかに聞き慣れぬ男の気息いきに羞はぢらふか、
やつれの見えるわたしの頬ほ、
ほつれたるわたしの髪をじつと見て、
虫の心も咽むせんだか。

青いすいつちよよ、
何なにも歎なげくな、驚くな、
わたしはすべて幸福しあはせだ、
いざ、今日けふ此頃このごろを語らはん、
来てとまれ、
わたしの左の白い腕かひなを借かすほどに。


上総の勝浦

おお美うつくしい勝浦、
山が緑の
優しい両手を伸ばした中に、
海と街とを抱いてゐる。

此処ここへ来ると、
人間も、船も、鳥も、
青空に掛る円まろい雲も、
すべてが平和な子供になる。

太洋たいやうで荒れる波も、
この浜の砂の上では、
柔かな鳴海なるみ絞りの袂たもとを
軽かろく拡げて戯れる。

それは山に姿を仮かりて
静かに抱く者があるからだ。
おお美うつくしい勝浦、
此処ここに私は「愛」を見た。


木この間まの泉

木この間まの泉の夜よとなる哀かなしさ、
静けき若葉の身ぶるひ、夜霧の白い息。

木この間まの泉の夜よとなる哀かなしさ、
微風そよかぜなげけば、花の香かぬれつつ身悶みもだえぬ。

木この間まの泉の夜よとなる哀かなしさ、
黄金こがねのさし櫛くし、月姫つきひめうるみて彷徨さまよへり。

木この間まの泉の夜よとなる哀かなしさ、
笛、笛、笛、笛、我等も哀かなしき笛を吹く。


草の葉

草の上に
更に高く、
唯ただ一ひともと、
二尺ばかり伸びて出た草。

かよわい、薄い、
細長い四五片へんの葉が
朝涼あさすゞの中に垂れて描ゑがく
女らしい曲線。

優しい草よ、
はかなげな草よ、
全身に
青玉せいぎよくの質しつを持ちながら、
七月の初めに
もう秋を感じてゐる。

青い仄ほのかな悲哀、
おお、草よ、
これがそなたのすべてか。


蛇へびよ、そなたを見る時、
わたしは二元論者になる。
美と醜と
二つの分裂が
宇宙に並存へいぞんするのを見る。
蛇よ、そなたを思ふ時、
わたしの愛の一辺いつぺんが解わかる。
わたしの愛はまだ絶対のもので無い。
蛮人ばんじんと、偽善者と、
盗賊と、奸商かんしやうと、
平俗な詩人とを恕ゆるすわたしも、
蛇よ、そなたばかりは
わたしの目の外ほかに置きたい。


蜻蛉とんぼ

木の蔭かげになつた、青暗あおぐらい
わたしの書斎のなかへ、
午後になると、
いろんな蜻蛉とんぼが止まりに来る。
天井の隅や
額がくのふちで、
かさこそと
銀の響ひゞきの羽はねざはり……
わたしは俯向うつむいて
物を書きながら、
心のなかで
かう呟つぶやく、
其処そこには恋に疲れた天使達、
此処ここには恋に疲れた女一人ひとり。


夏よ

夏、真赤まつかな裸をした夏、
おまへは何なんと云いふ強い力で
わたしを圧おさへつけるのか。
おまへに抵抗するために、
わたしは今、
冬から春の間あひだに貯ためた
命の力を強く強く使はされる。

夏、おまへは現実の中の
※ねつ[#「執/れんが」、U+24360、197-上-4]し切つた意志だ。
わたしはおまへに負けない、
わたしはおまへを取入とりいれよう、
おまへに騎のつて行いかう、
太陽の使つかひ、真昼まひるの霊、
涙と影を踏みにじる力者りきしや。

夏、おまへに由よつてわたしは今、
特別な昂奮かうふんが
偉大な情※じやうねつ[#「執/れんが」、U+24360、197-上-12]と怖おそろしい直覚とを以もつて
わたしの脈管みやくくわんに流れるのを感じる。
なんと云いふ神神かうがうしい感興、
おお、※ねつ[#「執/れんが」、U+24360、197-下-2]した砂を踏んで行ゆかう。


夏の力

わたしは生きる、力一ちからいつぱい、
汗を拭ふき拭ふき、ペンを手にして。
今、宇宙の生気せいきが
わたしに十分感電してゐる。
わたしは法悦に有頂天にならうとする。
雲が一片いつぺんあの空から覗のぞいてゐる。
雲よ、おまへも放たれてゐる仲間か。
よい夏だ、
夏がわたしと一所いつしよに燃え上がる。


大荒磯崎にて

海が急に膨ふくれ上がり、
起たち上がり、
前脚まへあしを上げた
千匹せんびきの大馬おほうまになつて
まつしぐらに押寄おしよせる。

一刹那いつせつな、背を乾ほしてゐた
岩と云いふ岩が
身構へをする隙すきも無く、
だ、だ、だ、だ、ど、どおん、
海は岩の上に倒れかかる。

磯いそは忽たちまち一面、
銀の溶液で掩おほはれる。
やがて其それが滑すべり落ちる時、
真珠を飾つた雪白せつぱくの絹で
さつと撫なでられぬ岩も無い。

一つの紫色むらさきいろをした岩の上には、
波の中の月桂樹げつけいじゆ――
緑の昆布こんぶが一つ捧さゝげられる。
飛沫しぶきと爆音との彼方かなたに、
海はまた遠退とほのいて行ゆく。


女の友の手紙

手紙が山田温泉から著ついた。
どんなに涼しい朝、
山風やまかぜに吹かれながら、
紙の端はしを左の手で
抑おさへ抑おさへして書かれたか。
この快闊くわいくわつな手紙、
涙には濡ぬれて来こずとも、
信濃の山の雲のしづくが
そつと落ち掛つたことであらう。


涼風

涼しい風、そよ風、
折折をりをりあまえるやうに[#「あまえるやうに」は底本では「あまへるやうに」]
窓から入はひる風。
風の中の美うつくしい女怪シレエネ、
わたしの髪にじやれ、
わたしの机の紙を翻ひるがへし、
わたしの汗を乾かし、
わたしの気分を
浅瀬の若鮎わかあゆのやうに、
溌溂はつらつと跳はね反かへらせる風。


地震後一年

九月一日いちじつ、地震の記念日、
ああ東京、横浜、
相模、伊豆、安房
各地に生き残つた者の心に、
どうして、のんきらしく、
あの日を振返る余裕があらう。
私達は誰たれも、誰たれも、
あの日のつづきにゐる。
まだまだ致命的な、
大きな恐怖のなかに、
刻一刻ふるへてゐる。
激震の急襲、
それは決して過ぎ去りはしない、
次の刹那せつなに来る、
明日あすに、明後日あさつてに来る。
私達は油断なく其それに身構へる。
喪もから喪もへ、
地獄から地獄へ、
心の上のおごそかな事実、
ああこの不安をどうしよう、
笑ふことも出来ない、
紛らすことも出来ない、
理詰で無くすることも出来ない。
若もしも誰たれかが
大平楽たいへいらくな[#「大平楽たいへいらくな」はママ]気分になつて、
もう一年いちねんたつた今日こんにち、
あのやうなカタストロフは無いと云いふなら、
それこそ迷信家を以もつて呼ばう。
さう云いふ迷信家のためにだけ、
有ることの許される
九月一日いちじつ、地震の記念日。


古簾

今年も取出とりだして掛ける、
地震の夏の古い簾すだれ。
あの時、皆が逃げ出したあとに
この簾すだれは掛かつてゐた。
誰たれがおまへを気にしよう[#「気にしよう」は底本では「気にしやう」]、
置き去ざりにされ、
家いへと一所いつしよに揺れ、
風下かざしもの火事の煙けぶりを浴びながら。

もし私の家うちも焼けてゐたら、
簾すだれよ、おまへが
第一の犠牲となつたであらう。
三日目に家うちに入はひつた私が
蘇生そせいの喜びに胸を躍らせ、
さらさらと簾すだれを巻いて、
二階から見上げた空の
大きさ、青さ、みづみづしさ。

簾すだれは古く汚よごれてゐる、
その糸は切れかけてゐる。
でも、なつかしい簾すだれよ、
共に災厄さいやくをのがれた簾すだれよ、
おまへを手づから巻くたびに、
新しい感謝が
四年前の九月のやうに沸わく。
おまへも私も生きてゐる。


虫干の日に

虫干むしぼしの日に現れたる
女の帽のかずかず、
欧羅巴ヨオロツパの旅にて
わが被きたりしもの。
おお、一千九百十二年の
巴里パリイの流行モオド。
リボンと、花と、
羽はね飾りとは褪あせたれど、
思出おもひでは古酒こしゆの如ごとく甘し。
埃ほこりと黴かびを透とほして
是等これらの帽の上に
セエヌの水の匂にほひ、
サン・クルウの森の雫しづく、
ハイド・パアクの霧、
ミユンヘンの霜、維納ウインの雨、
アムステルダムの入日いりひの色、
さては、また、
バガテルの薔薇ばらの香か、
仏蘭西座フランスざの人いきれ、
猶なほ残れるや、残らぬや、
思出おもひでは古酒こしゆの如ごとく甘し。
アウギユスト・ロダン
この帽の下もとにて
我手わがてに口づけ、
ラパン・アジルに集あつまる
新しき詩人と画家の群むれは
この帽を被きたる我を
中央に据ゑて歌ひき。
別れの握手の後のち、
猶なほ一たびこの帽を擡もたげて、
優雅なる詩人レニエの姿を
我こそ振返りしか。
ああ、すべて十ととせの前まへ、
思出おもひでは古酒こしゆの如ごとく甘し。


机に凭よりて

今夜、わたしの心に詩がある。
簗やなの上で跳はねる
銀の魚うをのやうに。
桃色の薄雲の中を奔はしる
まん円まるい月のやうに。
風と露とに揺ゆすれる
細い緑の若竹わかたけのやうに。

今夜、私の心に詩がある。
私はじつと其その詩を抑おさへる。
魚さかなはいよいよ跳はねる。
月はいよいよ奔はしる。
竹はいよいよ揺ゆすれる。
苦しい此時このとき、
楽しい此時このとき。


夕立の風
軒のきの簾すだれを動かし、
部屋の内うち暗くなりて
片時かたとき涼しければ、
我は物を書きさし、
空を見上げて、雨を聴きぬ。

書きさせる紙の上に
何時いつしか来きたりし蜂はち一つ。
よき姿の蜂はちよ、
腰の細さ糸に似て、
身に塗れる金きんは
何なにの花粉よりか成れる。

好よし、我が文字の上を
蜂はちの匍はふに任せん。
わが匂にほひなき歌は
素枯すがれし花に等し、
せめて弥生やよひの名残なごりを求めて
蜂はちの匍はふに任せん。


わが庭

おお咲いた、ダリヤの花が咲いた、
明るい朱しゆに、紫に、冴さえた黄金きんに。
破れた障子をすつかりお開あけ、
思ひがけない幸福しあはせが来たやうに。

黒ずんだ緑に、灰がかつた青、
陰気な常盤木ときはぎばかりが立て込んで
春と云いふ日を知らなんだ庭へ、
永い冬から一足いつそく飛びに夏が来た。
それも遅れて七月に。

まあ、うれしい、
ダリヤよ、
わたしは思はず両手をおまへに差延べる。
この開ひらいて尖とがつた白い指を
何なんと見る、ダリヤよ。

しかし、もう、わたしの目には
ダリヤもない、指もない、
唯ただ光と、※ねつ[#「執/れんが」、U+24360、205-上-3]と、匂にほひと、楽欲げうよくとに
眩暈めまひして慄ふるへた
わたしの心の花の象ざうがあるばかり。


夏の朝

どこかの屋根へ早くから
群れて集あつまり、かあ、かあと
啼ないた鴉からすに目が覚めて、
透すかして見れば蚊帳かやごしに
もう戸の外そとは白しらんでる。

細い雨戸を開あけたれば、
脹はれぼつたいやうな目遣めづかひの
鴨頭草つきくさの花咲きみだれ、
荒れた庭とも云いふばかり
しつとり青い露がおく。

日本の夏の朝らしい
このひと時の涼しさは、
人まで、身まで、骨までも
水晶質となるやうに、
しみじみ清く濡ぬれとほる。

[#1行アキは底本ではなし]厨くりやへ行つて水道の
栓をねぢれば、たた、たたと
思ひ余つた胸のよに、
バケツへ落ちて盛り上がる
こゝろ丈夫な水音も、

わたしの立つた板敷へ
裏口の戸の間あひだから
新聞くばりがばつさりと
投げこんで行ゆく物音も、
薄暗がりにここちよや。


蝉せみが啼なく。
燻いぶるよに、じじと一つ、
わたしの家いへの桐きりの木に。

その音ねにつれて、そこ、かしこ、
蝉せみ、蝉せみ、蝉せみ、蝉せみ、
いろんな蝉せみが啼なき出した。

わたしの家いへの蝉せみの音ねが
最初の口火、
いま山の手の番町ばんちやうの
どの庭、どの木、どの屋根も
七月の真赤まつかな吐息の火に焦こげる。

枝にも、葉にも、瓦かはらにも、
軒のきにも、戸にも、簾すだれにも、
流れるやうな朱しゆを注さした
光のなかで蝉せみが啼なく。

無駄と知らずに、根気よく、
砂を握つかんでずらす蝉せみ。

鍋なべの油を煮たぎらし、
呪のろひごとする悪の蝉せみ。

重い苦患くげんに身悶みもだえて、
鉄の鎖をゆする蝉せみ。

悟りめかして、しゆ、しゆ、しゆ、しゆと
水晶の珠数じゆずを鳴らす蝉せみ。

思ひ出しては一ひとしきり
泣きじやくりする恋の蝉せみ。

蝉せみ、蝉せみ、蝉せみ、蝉せみ、
※あつ[#「執/れんが」、U+24360、207-下-1]い真夏の日もすがら、
蝉せみの音ねは
啼なき止やんで、また啼なき次ぐ。

さて誰だれが知ろ、
啼なかず、叫ばず、ただひとり
蔭かげにかくれて、微かすかにも
羽ばたきをする雌めすの蝉せみ。


新秋

朝露あさつゆのおくままに、天地あめつちは
サフイイルと、青玉せいぎよくと
真珠を盛つたギヤマンの室しつ。
朝の日の昇るまま、天地あめつちは
黄金わうごんと、しろがねと
珊瑚さんごをまぜたモザイクの壁。
その中に歌ふトレモロ――秋の初風はつかぜ。


初秋はつあきの歌

初秋はつあきは来きぬ、白麻しらあさの
明るき蚊帳かやに臥ふしながら、
夜よの更けゆけば水色の
麻の軽かろきを襟近く
打被うちかづくまで涼しかり。

上の我子わがこは二人ふたりづれ
大人おとなの如ごとく遠く行ゆき、
夏の休みを陸奥みちのくの
山辺やまべの友の家いへに居て
今朝けさうれしくも帰りきぬ。

休みのはてに己おのが子と
別るる鄙ひなの親達は
夏の尽くるや惜しからん、
都に住めるしあはせは
秋の立つにも身に知らる。

貧しけれども、わが家いへの
今日けふの夕食ゆふげの楽しさよ、
黒川郡くろがはぐんの山辺やまべにて
我子わがこの採とれる百合ゆりの根を
我子わがこと共にあぢはへば。


初秋の月

世界はいと静かに
涼しき夜よるの帳とばりに睡ねむり、
黄金こがねの魚うを一つ
その差延べし手に光りぬ、
初秋はつあきの月。

紫水晶むらさきずゐしやうの海は
黒き大地だいぢに並び夢みて、
一つの波は彼方かなたより
柔かき節奏ふしどりに
その上を馳はせ来きたる。

波は次第に高まる、
麦の畝うねの風に逆さかふ如ごとく。
さて長き磯いその上に
拡がり、拡がる、
しろがねの網あみとして。

波は幾度いくたびもくり返し
奇くしき光の魚うをを抱かんとす。
されど網あみを知らで、
常に高く彼処かしこに光りぬ、
初秋はつあきの月。


優しい秋

誇りかな春に比べて、
優しい、優しい秋。
目に見えない刷毛はけを
秋は手にして、
日蔭ひかげの土、
風に吹かれる雲、
街の並木、
茅かやの葉、
葛かづらの蔓つる、
雑草の花にも、
一つ一つ似合はしい
好よい色を択えらんで、
まんべんなく、細細こまごまと、
みんなを彩ゑどつて行ゆく。
御覧ごらんよ、
その畑はたけに並んだ、
小鳥の脚あしよりも繊弱きやしやな
蕎麦そばの茎にも、
夕焼の空のやうな
美うつくしい臙脂紫ゑんじむらさき……
これが秋です。
優しい、優しい秋。


コスモスの花

少し冷たく、匂にほはしく、
清く、はかなく、たよたよと、
コスモスの花、高く咲く。
秋の心を知る花か、
うすももいろに高く咲く。


秋声

初秋はつあきの日の砂の上に
ひろき葉一つ、はかなくも
薄黄うすきを帯びし灰色の
影をば曳ひきて落ち来きたる。
あはれ傷つく鳥ならば
血に染そみつつも叫ばまし、
秋に堪たへざる落葉おちばこそ
反古ほごにひとしき音おとすなれ。


秋は薄手うすでの杯さかづきか、
ちんからりんと杯洗はいせんに触れて沈むよな虫が啼なく。
秋は妹の日傘パラソルか、
きやしやな翡翠ひすゐの柄えの把手とつて、
明るい黄色きいろの日があたる。

さて、また、秋は廿二三にじふにさんの今様いまやうづくり、
青みを帯びたお納戸なんどの著丈きだけすらりと、
白茶地しらちやぢに金糸きんしの多い色紙形しきしがた、唐織からおりの帯も眩まばゆく、
園遊会の片隅のいたや楓もみぢの蔭かげを行ゆき、
少し伏目に、まつ白な菊の花壇をじつと見る。

それから後ろのわたしと顔を見合せて、
「まあ、いい所で」と走り寄り、
「どうしてそんなにお痩やせだ」と、
十歳とをの時、別れた姉のやうな口振くちぶりは、
優しい、優しい秋だこと。


街に住みて

葡萄ぶだういろの秋の空を仰あふ[#ルビの「あふ」は底本では「おほ」]げば、
初めて斯かかるみづみづしき空を見たる心地す。
われ今日けふまで何なにをしてありけん、
厨くりやと書斎に在ありしことの寂さびしきを知らざりしかな。
わが心今更いまさらの如ごとく解かれたるを感ず。

葡萄色ぶだういろの秋の空は露にうるほふ、
斯かかる日にあはれ田舎へ行ゆかまし
そこにて掘りたての里芋を煮る吊鍋つりなべの湯気を嗅かぎ、
そこにて尻尾しりをふる百舌もずの甲高かんだかなる叫びを聞き、
そこにて刈稲かりいねを積みて帰る牛と馬とを眺め、
そこにて鳥兜とりかぶとと野菊のきくと赤き蓼たでとを摘まばや。

葡萄ぶだういろの秋の空はまた田舎の朝によろし。
砂川すなかはの板橋の上に片われ月づきしろく残り、
「川魚御料理かはうをおんれうり」の家いへは未いまだ寝たれど、
百姓屋の軒毎のきごとに立つる朝食あさげの煙は
街道がいだうの丈たけ高き欅けやきの並木に迷ひ、
籾もみする石臼いしうすの音、近所隣となりにごろごろとゆるぎ初そむれば、
「とつちやん[#「とつちやん」は底本では「とつちんや」]」と小ちさき末すゑ娘に呼ばれて、門先かどさきの井戸の許もとに鎌磨かまとぐ老爺おやぢもあり。
かかる時、たとへば渋谷の道玄坂の如ごとく、
突きあたりて曲る、行手ゆくての見えざる広き坂を、
今結びし藁鞋わらぢの紐ひもの切目きりめすがすがしく、
男も女も脚絆きやはんして足早あしばやに上のぼりゆく旅姿こそをかしからめ。

葡萄ぶだういろの秋の空の、されど又さびしきよ。
われを父母ちゝはゝありし故郷ふるさとの幼心をさなごゝろに返し、
恋知らぬ素直なる処女をとめの如ごとくにし、
中なか六番町の庭の無花果いちじくの[#「無花果の」は底本では「無果花の」]木の下もと、
手を組みて云いひ知らぬ淡あはき愁うれひに立たしめぬ、
おそらくは此朝このあさの無花果いちじくのしづくよ、すべて涙ならん。


郊外

けたたましく
私を喚よんだ百舌もずは何処どこか。
私は筆を擱おいて門もんを出た。
思はず五六町ちやうを歩いて、
今丘の上に来た。

見渡す野のはてに
青く晴れた山、
日を薄桃色うすもゝいろに受けた山、
白い雲から抜け出して
更に天を望む山。

今朝けさの空はコバルトに
少し白を交ぜて濡ぬれ、
その下の稲田いなだは
黄金きんの総ふさで埋うづまり、
何処どこにも広がる太陽の笑顔。

そよ風も悦よろこびを堪こらへかね、
その静かな足取あしどりを
急に踊りの振ふりに換へて、
またしても円まろく大きく
芒すゝきの原を滑すべる。

縦横たてよこの路みちは
幾すぢの銀を野に引き、
或あるものは森の彼方かなたに隠れ、
或あるものは近き村の口から
荷馬車と共に出て来る。

ああ野は秋の最中もなか、
胸一いつぱいに空気を吸へば、
人を清く健すこ[#ルビの「すこ」は底本では「すこや」]やかにする
黒土くろつちの香か、草の香か、
穀物の香か、水の香か。

私はじつと
其等それらの香かの中に浸ひたる。
またやがて浸ひたると云いはう、
爽さはやかに美しい大自然
悠久いうきうの中に。

此この小ちさい私の感激を
人の言葉に代へて云いふ者は、
私の側そばに立つて
紅あかい涙を著つけたやうな
ひとむらの犬蓼いぬたでの花。


海峡の朝

十一月の海の上を通る
快い朝方あさがたの風がある。
それに乗つて海峡を越える
無数の桃色の帆、金色こんじきの帆、
皆、朝日を一いつぱいに受けてゐる。

わたしはたつた一人ひとり
浜の草原くさはらに蹲踞しやがんで、
翡翠色ひすゐいろの海峡に
あとから、あとからと浮うき出して来る
船の帆の花片はなびらに眺め入いる。

わたしの周囲には、
草が狐色きつねいろの毛氈まうせんを拡げ、
中には、灌木かんぼくの
銀の綿帽子を著つけた杪こずゑや
牡丹色ぼたんいろの茎が光る。

後ろの方では、
何処どこの街の工場こうばか、
遠い所で一ひとしきり、
甘えるやうな汽笛の音おとが
長い金属の線を空に引く。


秋の盛り

秋の盛りの美うつくしや、
※(「くさかんむり/繁」の「毎」に代えて「誨のつくり」、第3水準1-91-43)※(「くさかんむり/婁」、第3水準1-91-21)はこべの葉さへ小さなる
黄金こがねの印いんをあまた佩おび、
野葡萄のぶだうさへも瑠璃るりを掛く。[#「掛く。」は底本では「掛く」]

百舌もずも鶸ひは[#ルビの「ひは」は底本では「ひよ」]も肥えまさり、
里の雀すゞめも鳥らしく
晴れたる空に群れて飛び、
蜂はちも巣毎すごとに子の歌ふ。

小豆色あづきいろする房垂れて
鶏頭けいとう高く咲く庭に、
一ひとしきり射さす日の入りも
涙ぐむまで身に沁しみぬ。


朝顔の花

朝顔の花うらやまし、
秋もやうやく更けゆくに、
真垣まがきを越えて、丈たけ高き
梢こづゑにさへも攀よぢゆくよ。

朝顔の花、人ならば
匂にほふ盛りの久しきを
世や憎みなん、それゆゑに
思はぬ恥も受けつべし。

朝顔の花、めでたくも
百千もゝちの色のさかづきに
夏より秋を注つぎながら、
飽くこと知らで日にぞ酔ゑふ。


晩秋

路みちは一ひとすぢ、並木路、
赤い入日いりひが斜はすに射さし、
点、点、点、点、朱しゆの斑まだら……
桜のもみぢ、柿かきもみぢ、
点描派ポアンチユリストの絵が燃える。

路みちは一ひとすぢ、さんらんと
彩色硝子さいしきガラスに照てらされた
廊らうを踏むよな酔ゑひごこち、
そして心しんからしみじみと
涙ぐましい気にもなる。

路みちは一ひとすぢ、ひとり行ゆく
わたしのためにあの空も
心中立しんぢゆうだて[#ルビの「しんぢゆうだて」は底本では「しんぢうだて」]に毒を飲み、
臨終いまはのきはにさし伸べる
赤い入日いりひの唇か。

路みちは一ひとすぢ、この先に
サツフオオの住む家いへがあろ。
其処そこには雪が降つて居よ。
出て行ゆことして今一度
泣くサツフオオが目に見える。

路みちは一ひとすぢ、秋の路みち、
物の盛りの尽きる路みち、
おお美うつくしや、急ぐまい、
点、点、点、点、しばらくは
わたしの髪も朱しゆの斑まだら……


電灯

狭い書斎の電灯よ、
紐ひもで縛られ、さかさまに
吊つり下げられた電灯よ、
わたしと共に十二時を
越してますます目が冴さえる
不眠症なる電灯よ。

わたしの夜よるの太陽よ、
たつた一つの電灯よ、
わたしの暗い心から
吐息と共に込み上げる
思想の水を導いて
机にてらす電灯よ。

そなたの顔も青白い、
わたしの顔も青白い。
地下室に似る沈黙に、
気は張り詰めて居ながらも、
ちらと戦わなゝく電灯よ、
わたしも稀まれに身をゆする。

夜よるは冷たく更けてゆく。
何なにとも知らぬ不安さよ、
近づく朝を怖おそれるか、
才さいの終りを予知するか、
女ごころと電灯と
じつと寂さびしく聴き入いれば、

死を隠したる片隅の
陰気な蔭かげのくらがりに、
柱時計の意地わるが
人の仕事と命とに
差引さしひきつけて、こつ、こつと
算盤そろばんを弾はじく球たまの音おと。


腐りゆく匂ひ

壺つぼには、萎しぼみゆくままに、
取換とりかへない白茶色しらちやいろの薔薇ばらの花。
その横の廉物やすものの仏蘭西皿フランスざらに
腐りゆく林檎りんごと華櫚くわりんの果み。
其等それらの花と果実このみから
ほのかに、ほのかに立ち昇る
佳よき香にほひの音楽、
わたしは是これを聴くことが好きだ。
盛りの花のみを愛めでた
青春の日と事変ことかはり、
わたしは今、
命の秋の
身も世もあらぬ寂さびしさに、
深刻の愛と
頽唐たいたうの美と
其等それらに半死の心臓を温あたためながら、
常に真珠の涙を待つてゐる。


十一月

昨日きのふも今日けふも曇つてゐる
銀灰色ぎんくわいしよくの空、冷たい空、
雲の彼方かなたでは
もう霰あられの用意が出来て居よう[#「居よう」は底本では「居やう」]。
どの木も涙つぽく、
たより無げに、
黄なる葉を疎まばらに余あまして、
小心せうしんに静まりかへつてゐる。
みんな敗残の人のやうだ。
小鳥までが臆病おくびやうに、
過敏になつて、
ちよいとした風ふうにも、あたふたと、
うら枯がれた茂みへ潜もぐり込む。
ああ十一月、
季節の喪もだ、
冬の墓地の白い門が目に浮うかぶ。
公園の噴水よ、
せめてお前でも歌へばいいのに、
狐色きつねいろの落葉おちばの沈んだ池へ
さかさまに大理石の身を投げて、
お前が第一に感激を無くしてゐる。


冬の木

十一月の灰色の
くもり玻璃がらすの空のもと、
唸うなりを立てて、荒あららかに、
ばさり、ばさりと鞭むちを振る
あはれ木枯こがらし、汝ながままに、

緑青ろくしやうの蝶てふ、紅あかき羽はね、
琥珀こはくと銀の貝の殻から、
黄なる文反古ふみほご、錆さびし櫛くし、
とばかり見えて、はらはらと
木この葉は脆もろく飛びかひぬ。

あはれ、今はた、木この間まには
四月五月の花も無し、
若き緑の枝も無し、
香かも夢も無し、微風そよかぜ
囁さゝやくあまき声も無し。

かの楽しげに歌ひつる
小鳥のむれは何処いづこぞや。
鳥は啼なけども、刺す如ごとき
百舌もずと鵯鳥ひよどり、しからずば
枝を踏み折る山鴉やまがらす。

諸木もろきは何なにを思へるや、
銀杏いてふ、木蓮もくれん、朴ほゝ、楓かへで、
かの男木おとこぎも、その女木めぎも
痩やせて骨だつ全身を
冬に晒さらしてをののきぬ。

やがて小暗をぐらき夜よるは来こん、
しぐるる雲はここ過ぎて
白き涙を落すべし、
月はさびしく青ざめて
森の廃墟はいきよを照てらさまし。

されど諸木もろきは死なじかし。
また若返る春のため
新しき芽と蕾つぼみとを
老いざる枝に秘めながら、
されど諸木もろきは死なじかし。


落葉

ほろほろと……また、かさこそと……
おち葉ば……おち葉ば……夜よもすがら……
庇ひさしをすべり……戸に縋すがり……
土に頽くづるる音おと聞けば……
脆もろき廃物……薄き滓かす……
錆さびし鍋銭なべせん……焼けし金箔はく……
渋色しぶいろの反古ほご……檀だんの灰……
さては女のさだ過ぎて
歎く雑歌ざふかの断章フラグマン……
うら悲がなしくも行毎ぎやうごとに
「死」の韻を押す断章フラグマン……


冬の朝

空は紫
その下もとに真黒まくろな
一列の冬の並木……
かなたには青物の畑はた海の如ごとく、
午前の日、霜に光れり。
われらが前を過ぎ去りし
農夫とその荷車とは
畑中はたなかの路みちの涯はてに
今、脂色やにいろの点となりぬ。
物をな云いひそ、君よ、
味あぢはひたまへ、この刹那せつな、
二人ふたりを浸ひたす神妙の
黙もくの趣おもむき……


腐果

白がちのコバルトの
うす寒き師走しはすの夜よ、
書斎の隅なる
セエヴルの鉢より
幾つかのくわりんの果みは身動みじろげり。

あはれ百合ゆりよりも甘し、
鈴蘭すゞらんよりも清し、
あはれ白き羽二重の如ごとく軽かるし、
黄金きんの針の如ごとく痛し、
熟したるくわりんの果みのかをり。

くわりんの果みに迫るは
つれなき風、からき夜寒よさむ、
あざ笑ふ電灯のひかり、
いづこぞや、かの四月の太陽は、
かの七月の露は。

されど、今、くわりんの果みには
苦痛と自負と入りまじり、
空むなしく腐らじとする
その心しんの堪こらへ力ぢからは
黄なる蛋白石オパアルの[#「蛋白石の」は底本では「胥白石の」]肌を汗ばませぬ。

ああ、くわりんの果みは
冬と風とにも亡ほろぼされず、
心と、肉と、晶液しやうえきと、
内なる尊たふとき物皆を香かとして
永劫えいごふ[#ルビの「えいごふ」は底本では「えいがふ」]の間あひだにたなびき行ゆく。


冬の一日

雪が止やんだ、
太陽が笑顔を見せる。
庭に積つもつた雪は
硝子がらす越しに
ほんのりと薔薇ばら色をして、
綿のやうに温かい。

小作こづくりな女の、
年よりは若く見える、
髷まげを小さく結ゆつた、
品ひんの好いい[#「好い」は底本では「如い」]お祖母ばあさんは、
古風な糸車いとぐるまの前で
黙つて紡つむいでゐる。

太陽が部屋へ入はひつて、
お祖母ばあさんの左の手に
そつと唇を触れる。
お祖母ばあさんは何時いつの間まにか
美うつくしい薔薇ばら色の雪を
黙つて紡つむいでゐる。


冬を憎む歌

ああ憎き冬よ、
わが家いへのために、冬は
恐怖おそれなり、咀のろひなり、
闖入者ちんにふしやなり、
虐殺なり、喪もなり。

街街まちまちの柳の葉を揺ゆり落して、
錆さびたる銅線の如ごとく枝のみを慄ふるはしめ、
園そのの菊を枝炭えだずみの如ごとく灰白はいじろませ、
家畜の蹄ひづめを霜の上にのめらしめて、
ああ猶なほ飽くことを知らざるや、冬よ。

冬は更に人間を襲ひて、
先まづわが家いへに来きたりぬ。
冬は風となりて戸を穿うがち、
縁えんよりせり出し、
霜となりて畳に潜ひそめり。

冬はインフルエンザとなり、
喘息ぜんそくとなり、
気管支炎となり、
肺炎となりて、
親と子と八人はちにんを責め苛さいなむ。

わが家いへは飢ゑと死に隣となりし、
寒さと、※ねつ[#「執/れんが」、U+24360、225-下-11]と、咳せきと、
※ねつ[#「執/れんが」、U+24360、225-下-12]の香かと、汗と、吸入きふにふの蒸気と、
呻吟しんぎんと、叫びと、悶絶もんぜつと、
啖たんと、薬と、涙とに満みてり。

かくて十日とをか……猶なほ癒いえず
ああ我心わがこゝろは狂はんとす、
短劔たんけんを執とりて、
ただ一撃に刺さばや、
憎き、憎き冬よ、その背を。


白樺

冬枯ふゆがれの裾野すそのに
ひともと
しら樺かばの木は光る。
その葉は落ち尽つくして、
白き生身いきみを
女性によしやうの如ごとく
師走しはすの風に曝さらし、
何なにを祈るや、独り
双手もろでを空に張る。

日は今、遥はるかに低き
うす紫の
遠山とほやまに沈み去り、
その余光よくわうの中に、
しら樺かばの木は
悲しき殉教者の血を、
その胸より、
たらたらと
落葉おちばの上に流す。


雪の朝

夜よが明けた。
風も、大気も、
鉛色なまりいろの空も、
野も、水も
みな気息いきを殺してゐる。

唯ただ見るのは
地上一尺の大雪……
それが畝畝うね/\の直線を
すつかり隠して、
いろんな三角の形かたちを
大川おほかはに沿うた
歪形いびつな畑はたけに盛り上げ、
光を受けた部分は
板硝子いたがらすのやうに反射し、
蔭かげになつた所は
粗悪な洋紙やうしを撒まきちらしたやうに
鈍にぶく艶つやを消してゐる。

そして所所ところどころに
幾つかの
不格好ぶかくかうな胴像トルソが
どれも痛痛いたいたしく
手を失ひ、
脚あしを断たれて、
真白まつしろな胸に
黒い血をにじませながら立つてゐる。

それは枝を払はれたまま、
じつと、いきんで、
死なずに春を待つてゐる
太い櫟くぬぎの幹である。
たとへば私達のやうな者である。


雪の上の鴉

鴉からす、鴉からす、
雪の上の鴉からす、
近い処に一羽いちは、
少し離れて十四五羽は。

鴉からす、鴉からす、
雪の上の鴉からす、
半紙の上に黒く
大人おとなが書いた字のやうだ。

鴉からす、鴉からす、
雪の上の鴉からす、
「かあ」と一羽いちはが啼なけば
寂さびしく「かあ」と皆が啼なく。

鴉からす、鴉からす、
雪の上の鴉からす、
餌ゑさが無いのでじいつと
動きもせねば飛びもせぬ。


西土往来
   (欧洲旅行前及び旅中の詩廿九章)



別離

退船たいせんの銅鑼どらいま鳴り渡り、
見送みおくりの人人ひとびと君を囲めり。
君は忙せはしげに人人ひとびとと手を握る。
われは泣かんとはづむ心の毬まりを辛からくも抑おさへ、
人人ひとびとの中を脱ぬけて小走こばしりに、
うしろの甲板でつきに隠かくるれば、
波より射返いかへす白きひかり墓の如ごとし。

この二三分………四五分の寂さびしさ、
われ一人ひとりのけ者の如ごとし、
君と人人ひとびととのみ笑ひさざめく。
恐らく遠く行ゆく旅の身は君ならで、
この寂さびしき、寂さびしき我ならん。

退船たいせんの銅鑼どら又ひびく。
残刻ざんこくに、されどまた痛快に、
わが一人ひとりとり残されし冷たき心を苛さいなむその銅鑼どら……

込み合へる人人ひとびとに促され、押され、慰められ、
我は力なき毬まりの如ごとく、ふらふらと船を下くだる。
乗り移りし小蒸汽こじようきより見上ぐれば、
今更に※田丸あつたまる[#「執/れんが」、U+24360、231-下-7]の船梯子ふなばしごの高さよ。
ああ君と我とは早くも千里万ばん里の差………

わが小蒸汽こじようきは堪たへかねし如ごとく終つひに啜すゝり泣くに………
一声いつせい、二声にせい………
千百せんびやくの悲鳴をほつと吐息に換へ、
「ああなつかしや」と心細きわが魂たましひの、
臨終いまはの念の如ごとくに打洩うちもらす※あつ[#「執/れんが」、U+24360、232-上-1]き涙の白金はくきんの幾滴いくてき………

君が船は無言のままに港を出いづ。
船と船、人人ひとびとは叫びかはせど、
かなたに立てる君と此処ここに坐すわれる我とは、
静かに、静かに、二つの石像の如ごとく別れゆく……
(一九一一年十一月十一日神戸にて)


別後べつご

わが夫せの君海に浮うかびて去りしより、
わが見る夜毎よごとの夢、また、すべて海に浮うかぶ。
或夜あるよは黒きわたつみの上、
片手に乱るる裾すそをおさへて、素足のまま、
君が大船おほふねの舳先へさきに立ち、
白き蝋燭らふそくの銀の光を高くさしかざせば、
滴したゝる蝋らふのしづく涙と共に散りて、
黄なる睡蓮すいれんの花となり、又しろき鱗うろこの魚うをとなりぬ。
かかる夢見しは覚めたる後のちも清清すがすがし。

されど、又、かなしきは或夜あるよの夢なりき。
君が大船おほふねの窓の火ややに消えゆき、
唯ただ一つ残れる最後の薄き光に、
われ外そとより硝子がらすごしにさし覗のぞけば、
われならぬ面おもやつれせしわが影既に内うちにありて、
あはれ君が棺ひつぎの前にさめざめと泣き伏すなり。
「われをも内うちに入いれ給たまへ」と叫べど、
外そとは波風の音おどろしく、
内うちはうらうへに鉛の如ごとく静かに重く冷たし。
泣けるわが影は
氷の如ごとく、霞かすみの如ごとく、透すきとほる影の身なれば、
わが声を聴かぬにやあらん。

われは胸も裂くるばかり苛立いらだち、
扉の方かたより馳はせ入いらんと、
三みたび五いつたび甲板でつきの上を繞めぐれど、
皆堅く鎖とざして入いるべき口も無し。
もとの硝子がらす窓に寄りて足ずりする時、
第三のわが影、艫ともの方かたの渦巻く浪なみにまじり、
青白く長き手に抜手ぬきできつて泳ぎつつ、
「は、は、は、は、そは皆物好きなるわが夫せの君のわれを試ためす戯れぞ」と笑ひき。
覚めて後のち、我はその第三の我を憎みて、
日ひひと日ひ腹だちぬ。


ひとり寝

良人をつとの留守の一人ひとり寝に、
わたしは何なにを著きて寝よう。
日本の女のすべて著きる
じみな寝間著ねまきはみすぼらし、
非人ひにんの姿「死」の下絵、
わが子の前もけすさまじ。

わたしは矢張やはりちりめんの
夜明よあけの色の茜染あかねぞめ、
長襦袢ながじゆばんをば選びましよ。
重い狭霧さぎりがしつとりと
花に降るよな肌ざはり、
女に生れたしあはせも
これを著きるたび思はれる。

斜はすに裾すそ曳ひく長襦袢ながじゆばん、
つい解けかかる襟もとを
軽く合せるその時は、
何なんのあてなくあこがれて
若さに逸はやるたましひを
じつと抑おさへる心もち。

それに、わたしの好きなのは、
白蝋はくらふの灯ひにてらされた
夢見ごころの長襦袢ながじゆばん、
この匂にほはしい明りゆゑ、
君なき閨ねやもみじろげば
息づむまでに艶なまめかし。

児等こらが寝すがた、今一度、
見まはしながら灯ひをば消し、
寒い二月の床とこのうへ、
こぼれる脛はぎを裾すそに巻き、
つつましやかに足曲げて、
夜著よぎを被かづけば、可笑をかしくも
君を見初みそめたその頃ころの
娘ごころに帰りゆく。

旅の良人をつとも、今ごろは
巴里パリイの宿のまどろみに、
極楽鳥の姿する
わたしを夢に見てゐるか。


東京にて

わたしはあまりに気が滅入めいる。
なんの自分を案じましよ、
君を恋しと思ひ過ぎ、
引き立ち過ぎて気が滅入めいる。

「初恋の日は帰らず」と、
わたしの恋の琴の緒をに
その弾き歌は用が無い。
昔にまさる燃える気息いき。

昔にまさるため涙。
人目をつつむ苦しさに、
鳴りを沈めた琴の絃いと、
じつと哀かなしく張り詰める。

巴里パリイの大路おほぢを行ゆく君は
わたしの外ほかに在るとても、
わたしは君の外ほかに無い、
君の外ほかには世さへ無い。

君よ、わたしの遣瀬やるせなさ、
三月みつき待つ間まに身が細り、
四月よつきの今日けふは狂ひ死じに
するかとばかり気が滅入めいる。

人並ならぬ恋すれば、
人並ならぬ物おもひ。
其それもわたしの幸福しあはせと
思ひ返せど気が滅入めいる。

昨日きのふの恋は朝の恋、
またのどかなる昼の恋。
今日けふする恋は狂ほしい
真赤まつかな入日いりひの一ひとさかり。

とは思へども気が滅入めいる。
若もしもそのまま旅に居て
君帰らずばなんとせう。
わたしは矢張やはり気が滅入めいる。


図案

久しき留守に倚よりかかる
君が手なれの竹の椅子いす。
とる針よりも、糸よりも、
女ごころのかぼそさよ。

膝ひざになびいた一ひとひら
江戸紫に置く繍ぬひは、
ひまなく恋に燃える血の
真赤な胸の罌粟けしの花。

花に添ひたる海の色、
ふかみどりなる罌粟けしの葉は、
君が越えたる浪形なみがたに
流れて落ちるわが涙。

さは云いへ、女のたのしみは、
わが繍ぬふ罌粟けしの「夢」にさへ
花をば揺する風に似て、
君が気息いきこそ通かよふなれ。


旅に立つ

いざ、天てんの日は我がために
金きんの車をきしらせよ。
颶風あらしの羽はねは東より
いざ、こころよく我を追へ。

黄泉よみの底まで、泣きながら、
頼む男を尋ねたる
その昔にもえや劣る。
女の恋のせつなさよ。

晶子や物に狂ふらん、
燃ゆる我が火を抱きながら、
天あまがけりゆく、西へ行ゆく、
巴里パリイの君へ逢あひに行ゆく。
(一九一二年五月作)


子等に

あはれならずや、その雛ひなを
荒巌あらいはの上の巣に遺のこし、
恋しき兄鷹せうを尋ねんと、
颶風あらしの空に下おりながら、
雛ひなの啼なく音ねにためらへる
若き女鷹めだかの若もしあらば。――
それは窶やつれて遠く行ゆく
今日けふの門出の我が心。
いとしき児こらよ、ゆるせかし、
しばし待てかし、若き日を
猶なほ夢を見るこの母は
汝なが父をこそ頼むなれ。


巴里より葉書の上に

巴里パリイに著ついた三日目に
大きい真赤まつかな芍薬しやくやくを
帽の飾りに附つけました。
こんな事して身の末すゑが
どうなるやらと言ひながら。


エトワアルの広場

土から俄にはかに
孵化ふくわして出た蛾がのやうに、
わたしは突然、
地下電車メトロから地上へ匐はひ上がる。
大きな凱旋門がいせんもんがまんなかに立つてゐる。
それを繞めぐつて
マロニエの並木が明るい緑を盛上げ、
そして人間と、自動車と、乗合馬車と、
乗合自動車との点と塊マツスが
命ある物の
整然とした混乱と
自主独立の進行とを、
断間たえま無しに
八方はつぱうの街から繰出し、
此処ここを縦横じゆうわう[#ルビの「じゆうわう」は底本では「じうわう」]に縫つて、
断間たえま無しに
八方はつぱうの街へ繰込んでゐる。

おお、此処ここは偉大なエトワアルの広場……
わたしは思はずじつと立ち竦すくむ。

わたしは思つた、――
これで自分は此処ここへ二度来る。
この前来た時は
いろんな車に轢ひき殺され相さうで、
怖こはくて、
広場を横断する勇気が無かつた。
そして輻ふくになつた路みちを一つ一つ越えて、
モンソオ公園へ行ゆく路みちの
アヴニウ・ウツスの入口いりくちを見附みつける為ために、
広場の円の端を
長い間ぐるぐると歩あるいてゐた。
どうした気持のせいでか、
アヴニウ・ウツスの入口いりくちを見附みつけ損そこなつたので、
凱旋門がいせんもんを中心に
二度も三度も広場の円の端を
馬鹿ばからしく歩あるき廻つてゐるのであつた。

けれど今日けふは用意がある。
わたしは地図を研究して来てゐる。
今日けふわたしの行ゆくのは
バルザツク街まちの裁縫師タイユウルの家いへだ。
バルザツク街まちへ出るには、
この広場を前へ
真直まつすぐに横断すればいいのである。

わたしは斯かう思つたが、併しかし、
真直まつすぐに広場を横断するには
縦横じゆうわうに絶間たえま無く馳はせちがふ
速度の速い、いろんな車が怖こはくてならぬ。
広場へ出るが最期
二三歩で
轢ひき倒されて傷をするか、
轢ひき殺されてしまふかするであらう……

この時、わたしに、突然、
何なんとも言ひやうのない
叡智と威力とが内うちから湧わいて、
わたしの全身を生きた鋼鉄の人にした。
そして日傘パラソルと嚢サツクとを提さげたわたしは
決然として、馬車、自動車、
乗合馬車、乗合自動車の渦の中を真直まつすぐに横ぎり、
あわてず、走らず、
逡巡しゆんじゆんせずに進んだ。
それは仏蘭西フランスの男女の歩あるくが如ごとくに歩あるいたのであつた。
そして、わたしは、
わたしが斯かうして悠悠いういうと歩あるけば、
速度の疾はやいいろんな怖おそろしい車が
却かへつて、わたしの左右に
わたしを愛して停とゞまるものであることを知つた。

わたしは新しい喜悦に胸を跳をどらせながら、
斜めにバルザツク街まちへ入はひつて行つた。
そして裁縫師タイユウルの家いへでは
午後二時の約束通り、
わたしの繻子しゆすのロオヴの仮縫かりぬひを終つて
若い主人夫婦がわたしを待つてゐた。


薄暮はくぼ

ルウヴル宮きゆう[#ルビの「きゆう」は底本では「きう」]の正面も、
中庭にある桃色の
凱旋門がいせんもんもやはらかに
紫がかつて暮れてゆく。
花壇の花もほのぼのと
赤と白とが薄くなり、
並んで通る恋人も
ひと組ひと組暮れてゆく。
君とわたしも石段に
腰掛けながら暮れてゆく。


※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルサイユの逍遥

※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルサイユの宮みやの
大理石の階かいを降くだり、
後庭こうていの六月の
花と、香かと、光の間あひだを過ぎて
われ等ら三人みたりの日本人は
広大なる森の中に入いりぬ。

二百にびやく年を経たる※(「木+無」、第3水準1-86-12)ぶなの大樹だいじゆは
明るき緑の天幕てんとを空に張り、
その下もとに紫の苔こけ生おひて、
物古ものふりし石の卓一つ
匐はふ蔦つたの黄緑わうりよくの若葉と
薄赤き蔓つるとに埋うづまれり。

二人ふたりの男は石の卓に肘ひぢつきて
苔こけの上に横たはり、
われは上衣うはぎを脱ぎて
※(「木+無」、第3水準1-86-12)ぶなの根がたに蹲踞うづくまりぬ。
快き静けさよ、かなたの梢こずゑに小鳥の高音たかね……
近き涼風すゞかぜの中に立麝香草たちじやかうさうの香り……

わが心は宮みやの中うちに見たる
ルイ王とナポレオン皇帝との
華麗と豪奢がうしやとに酔ゑひつつあり。
后きさき達の寝室の清清すがすがしき白と金色こんじき……
モリエエルの演じたる
宮廷劇場の静かな猩猩緋しやう/″\ひ……

されど、楽しきわが夢は覚めぬ。
目まぐるしき過去の世紀は
かの王后わうこうの栄華と共に亡びぬ。
わが目に映るは今
脆もろき人間の外ほかに立てる
※(「木+無」、第3水準1-86-12)ぶなの大樹と石の卓とばかり。

ああ、われは寂さびし、
わが追ひつつありしは
人間の短命の生せいなりき。
いでや、森よ、
われは千年の森の心を得て、
悠悠いう/\と人間の街に帰るよしもがな。


仏蘭西の海岸にて

さあ、あなた、磯いそへ出ませう、
夜通やどほ[#ルビの「やどほ」はママ]し涙に濡ぬれた
気高けだかい、清い目を
世界が今開あけました。
おお、夏の暁あかつき、
この暁あかつきの大地の美しいこと、
天使の見る夢よりも、
聖母の肌よりも。

海峡には、ほのぼのと
白い透綾すきやの霧が降つて居ます。
そして其処そこの、近い、
黒い暗礁の
疎まばらに出た岩の上に
鷺さぎが五六羽は、
首を羽はねの下に入いれて、
脚あしを浅い水に浸つけて、
じつとまだ眠つてゐます。
彼等を驚かさないやうに、
水際みづぎはの砂の上を、そつと、
素足で歩あるいて行ゆきませう。

まあ、神神かう/″\しいほど、
涼しい風だこと……
世界の初めにエデンの園
若いイヴの髪を吹いたのも此この風でせう。
ここにも常に若い
みづみづしい愛の世界があるのに、
なぜ、わたし達は自由に
裸のままで吹かれて行ゆかないのでせう。
けれど、また、風に吹かれて、
帆のやうに袂たもとの揚がる快さには
日本の著物きものの幸福しあはせが思はれます。

御覧ごらんなさい、
わたし達の歩みに合せて、
もう海が踊り始めました。
緑玉エメラルドの女衣ロオブに
水晶と黄金きんの笹縁さゝべり……
浮き上がりつつ、沈みつつ、
沈みつつ、浮き上がりつつ……
そして、その拡がつた長い裾すそが
わたし達の素足と縺もつれ合ひ、
そしてまた、ざぶるうん、ざぶるうんと
間まを置いて海の鐃※(「金+拔のつくり」、第3水準1-93-6)ねうばちが鳴らされます。

あら、鷺さぎが皆立つて行ゆきます、
俄にはかに紅鷺べにさぎのやうに赤く染まつて……
日が昇るのですね、
霧の中から。


フオンテンブロウの森

秋の歌はそよろと響く
白楊はくやうと毛欅ぶなの森の奥に。
かの歌を聞きつつ、我等は
しづかに語らめ、しづかに。

褪さめたる朱しゆか、
剥はがれたる黄金きんか、
風無くて木この葉は散りぬ、
な払ひそ、よしや、衣きぬにとまるとも。

それもまた木この葉の如ごとく、
かろやかに一つ白き蝶てふ
舞ひて降くだれば、尖とがりたる
赤むらさきの草ぞゆするる。

眠れ、眠れ、疲れたる
春夏はるなつの踊子をどりこよ、蝶てふよ。
かぼそき路みちを行ゆきつつ、猶なほ我等は
しづかに語らめ、しづかに。

おお、此処ここに、岩に隠れて
ころころと鳴る泉あり、
水の歌ふは我等が為ためならん、
君よ、今は語りたまふな。


巴里郊外

たそがれの路みち、
森の中に一ひとすぢ、
呪のろはれた路みち、薄白うすじろき路みち、
靄もやの奥へ影となり遠ざかる、
あはれ死にゆく路みち。

うち沈みて静かな路みち。
ひともと[#「ひともと」は底本では「もともと」]何なんの木であらう、
その枯れた裸の腕かひなを挙げ、
小暗をぐらきかなしみの中に、
心疲れた路みちを見送る。

たそがれの路みちの別れに、樺かばの木と
榛はんの森は気が狂ふれたらし、
あれ、谺響こだまが返す幽かすかな吐息……
幽かすかな冷たい、調子はづれの高笑ひ……
また幽かすかな啜すゝり泣き……

蛋白石色オパアルいろの珠数珠じゆずだまの実の
頸飾くびかざりを草の上に留とゞめ、
薄墨色の音せぬ古池を繞めぐりて、
靄もやの奥へ影となりて遠ざかる、
あはれ、たそがれの森の路みち……
(一九一二年巴里にて)


ツウル市にて

水に渇かつえた白緑はくろくの
ひろい麦生むぎふを、すと斜はすに
翔かける燕つばめのあわてもの、
何なにの使つかひに急ぐのか、
よろこびあまる身のこなし。

続いて、さつと、またさつと、
生なまあたたかい南風みなみかぜ
ロアルを越して吹く度たびに、
白楊はくやうの樹きがさわさわと
待つてゐたよに身を揺ゆする。

河底かはぞこにゐた家鴨あひるらは
岸へ上のぼつて、アカシヤの
蔭かげにがやがや啼なきわめき、
燕つばめは遠く去つたのか、
もう麦畑むぎばたに影も無い。

それは皆皆よい知らせ、
暫しばらくの間まに風は止やみ、
雨が降る、降る、ほそぼそと
金きんの糸やら絹の糸[#「絹の糸」は底本では「絹糸の」]、
真珠の糸の雨が降る。

嬉うれしや、これが仏蘭西フランスの
雨にわたしの濡ぬれ初はじめ。
軽い婦人服ロオブに、きやしやな靴、
ツウルの野辺のべの雛罌粟コクリコの
赤い小路こみちを君と行ゆき。

濡ぬれよとままよ、濡ぬれたらば、
わたしの帽のチウリツプ
いつそ色をば増しませう、
増さずば捨てて、代りには
野にある花を摘んで挿そ。

そして昔のカテドラル
あの下蔭したかげで休みましよ。
雨が降る、降る、ほそぼそと
金きんの糸やら、絹の糸、
真珠の糸の雨が降る。
(ロアルは仏蘭西南部の[#「南部の」は底本では「南都の」]河なり)


セエヌ川

ほんにセエヌ川よ、いつ見ても
灰がかりたる浅みどり……
陰影かげに隠れたうすものか、
泣いた夜明よあけの黒髪か。

いいえ、セエヌ川は泣きませぬ。
橋から覗のぞくわたしこそ
旅にやつれたわたしこそ……

あれ、じつと、紅玉リユビイの涙のにじむこと……
船にも岸にも灯ひがともる。
セエヌ川よ、
やつばりそなたも泣いてゐる、
女ごころのセエヌ川……


芍薬

大輪たいりんに咲く仏蘭西フランスの
芍薬しやくやくこそは真赤まつかなれ。
枕まくらにひと夜よ置きたれば
わが乱れ髪夢にして
みづからを焼く火となりぬ。


ロダンの家の路

真赤まつかな土が照り返す
だらだら坂ざかの二側ふたかはに、
アカシヤの樹きのつづく路みち。

あれ、あの森の右の方かた、
飴色あめいろをした屋根と屋根、
あの間あひだから群青ぐんじやうを
ちらと抹なすつたセエヌ川……

[#1行アキは底本ではなし]涼しい風が吹いて来る、
マロニエの香かと水の香かと。

これが日本の畑はたけなら
青い「ぎいす」が鳴くであろ。
黄ばんだ麦と雛罌粟ひなげしと、
黄金きんに交ぜたる朱しゆの赤さ。

誰たが挽ひき捨てた荷車か、
眠い目をして、路みちばたに
じつと立ちたる馬の影。

「 MAITREメエトル RODINロダン の別荘は。」
問ふ二人ふたりより、側そばに立つ
KIMONOキモノ 姿のわたしをば
不思議と見入る田舎人ゐなかびと。

「メエトル・ロダンの別荘は
ただ真直まつすぐに行ゆきなさい、
木の間あひだから、その庭の
風見車かざみぐるまが見えませう。」

巴里パリイから来た三人さんにんの
胸は俄にはかにときめいた。
アカシヤの樹きのつづく路みち。


飛行機

空をかき裂さく羽はねの音……
今日けふも飛行機が漕こいで来る。
巴里パリイの上を一ひとすぢに、
モンマルトルへ漕こいで来る。

ちよいと望遠鏡をわたしにも……
一人ひとりは女です……笑つてる……
アカシアの枝が邪魔になる……

何処どこへ行ゆくのか知らねども、
毎日飛べば大空の
青い眺めも寂さびしかろ。

かき消えて行ゆく飛行機の
夏の日中ひなかの羽はねの音……


モンマルトルの宿にて

あれ、あれ、通る、飛行機が、
今日けふも巴里パリイをすぢかひに、
風切る音をふるはせて、
身軽なこなし、高高たかだかと
羽はねをひろげたよい形かたち。

オペラ眼鏡グラスを目にあてて、
空を踏まへた胆太きもぶとの
若い乗手のりてを見上ぐれば、
少し捻ひねつた機体から
きらと反射の金きんが散る。

若い乗手のりてのいさましさ、
後ろを見捨て、死を忘れ。
片時かたどきやまぬ新らしい
力となつて飛んで行ゆく、
前へ、未来へ、ましぐらに。


暗殺酒鋪キヤバレエ・ダツサツサン
   (巴里モンマルトルにて)

閾しきゐを内へ跨またぐとき、
墓窟カバウの口を踏むやうな
暗い怖おびえが身に迫る。

煙草たばこのけぶり、人いきれ、
酒類しゆるゐの匂にほひ、灯ひの明あかり、
黒と桃色、黄と青と……

あれ、はたはたと手の音が
きもの姿に帽を著きた
わたしを迎へて爆はぜ裂ける。

鬼のむれかと想おもはれる
人の塊かたまり、そこ、かしこ。
もやもや曇る狭い室しつ。
    ×
淡い眩暈めまひのするままに
君が腕かひなを軽く取り、
物珍めづらしくさし覗のぞく
知らぬ人等ひとらに会釈して、
扇で半なかば頬ほを隠し、
わたしは其処そこに掛けてゐた。

ボウドレエルに似た像が
荒い苦悶くもんを食ひしばり、
手を後ろ手でに縛られて
煤すゝびた壁に吊つるされた、
その足もとの横長い
粗木あらきづくりの腰掛に。

「この酒鋪キヤバレエの名物は、
四百しひやく年へた古家ふるいへの
きたないことと、剽軽へうきんな[#「剽軽な」は底本では「飄軽な」]
また正直なあの老爺おやぢ、
それにお客は漫画家と
若い詩人に限ること。」
こんな話を友はする。
    ×
濶ひろい股衣ヅボンの大股おほまたに
老爺おやぢは寄つて、三人さんにんの
日本の客の手を取つた。
伸びるがままに乱れたる
髪も頬髭ほひげも灰白はひじろみ、
赤い上被タブリエ、青い服、
それも汚よごれて裂けたまま。
太い目元に皺しわの寄る
屈托くつたくのない笑顔して、
盛高もりだかの頬ほと鼻先の
林檎色りんごいろした美うつくしさ。

老爺おやぢの手から、前の卓、
わたしの小ちさい杯さかづきに
注つがれた酒はムウドンの
丘の上から初秋はつあきの
セエヌの水を見るやうな
濃い紫を湛たたへてる。
    ×
「聴け、我が子等こら」と客達を
叱しかるやうなる叫びごゑ。

老爺おやぢはやをら中央まんなかの
麦稈むぎわら椅子いすに掛けながら、
マンドリンをば膝ひざにして、

「皆さん、今夜は珍しい
日本の詩人をもてなして、
※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ルレエヌをば歌ひましよ。」

老爺おやぢの声の止やまぬ間まに
拍手の音が降りかかる[#「かかる」は底本では「かがる」]。

赤い毛をした、痩形やせがたの、
モデル女も泳ぐよに
一人ひとりの画家の膝ひざを下をり、
口笛を吹く、手を挙げる。


驟雨

驟雨オラアジユは過ぎ行ゆく、
巴里パリイを越えて、
ブロオニユの森のあたりへ。

今、かなたに、
樺色かばいろと灰色の空の
板硝子いたがらすを裂く雷らいの音、
青玉せいぎよくの電いなづまの瀑たき。

猶なほ見ゆ、遠山とほやまの尖さきの如ごとく聳そばだつ
薄墨うすすみのオペラの屋根の上、
霧の奥に、
猩猩緋しやう/″\ひと黄金きんの
光の女服ロオブを脱ぎ放ち、
裸となりて雨を浴ぶる
夏の女皇ぢよくわうの
仄白ほのじろき八月の太陽。

猶なほ、濡ぬれわたる街の並木の
アカシヤとブラタアヌは
汗と塵埃ほこりと※ねつ[#「執/れんが」、U+24360、254-下-7]を洗はれて、
その喜びに手を振り、
頭かしらを返し踊るもあり。

カツフエのテラスに花咲く
万寿菊まんじゆぎくと薔薇ばらは
斜はすに吹く涼風すゞかぜの拍子に乗りて
そぞろがはしく
ワルツを舞はんとするもあり。

猶なほ、そのいみじき
灌奠ラバシヨンの余沫よまつは
枝より、屋根より、
はらはらと降らせぬ、
水晶の粒を、
銀の粒を、真珠の粒を。

驟雨オラアジユは過ぎ行ゆく、
爽さわやかに、こころよく。
それを見送るは
祭の列の如ごとく楽し。

わがある七しち階の家いへも、
わが住む三階の窓より見ゆる
近き四方しはうの家家いへいへも、
窓毎まどごとに光を受けし人の顔、
顔毎かほごとに朱しゆの笑ゑまひ……


巴里の一夜

テアトル・フランセエズ[#「フランセエズ」は底本では「フランセエエ」]の二階目の、
紅あかい天鵞絨びろうどを張りつめた
看棚ロオジユの中に唯ただ二人ふたり
君と並べば、いそいそと
跳をどる心のおもしろや。
もう幕開まくあきの鈴が鳴る。

第一列のバルコンに、
肌の透すき照る薄ごろも、
白い孔雀くじやくを見るやうに
銀を散らした裳もを曳ひいて、
駝鳥だてうの羽はねのしろ扇、
胸に一いちりん白い薔薇ばら、
しろいづくめの三人さんにんは
マネが描かくよな美人づれ、
望遠鏡めがねの銃つゝが四方しはうから
みな其処そこへ向くめでたさよ。

また三階の右側に、
うす桃色のコルサアジユ、
金きんの繍ぬひある裳もを著つけた
華美はでな姿の小女こをんなが
ほそい首筋、きやしやな腕、
指環ゆびわの星の光る手で
少し伏目に物を読み、
折折をりをりあとを振返る
人待顔ひとまちがほの美うつくしさ。

あら厭いや、前のバルコンへ、
厚いくちびる、白い目の
アラビヤらしい黒奴くろんぼが
襟も腕かひなも指さきも
きらきら光る、おなじよな
黒い女を伴つれて来た。

どしん、どしんと三度程
舞台を叩たゝく音がして、
しづかに揚あがる黄金きんの幕。
よごれた上衣うはぎ、古づぼん、
血に染そむやうな赤ちよつき、
コツペが書いた詩の中の
人を殺した老鍛冶らうかぢが
法官達の居ならんだ
前に引かれる痛ましさ、
足の運びもよろよろと……

おお、ムネ・シユリイ、見るからに
老優の芸の偉大さよ。


ミユンヘンの宿

九月の初め、ミユンヘンは
早くも秋の更けゆくか、
モツアルト街まち、日は射させど
ホテルの朝のつめたさよ。

青き出窓の欄干らんかんに
匍はひかぶされる蔦つたの葉は
朱しゆと紅くれなゐと黄金きんを染め
照れども朝のつめたさよ。

鏡の前に立ちながら
諸手もろでに締むるコルセツト、
ひさき銀のボタンにも
しみじみ朝のつめたさよ。


伯林停車場

ああ重苦しく、赤黒ぐろく、
高く、濶ひろく、奥深い穹窿きゆうりゆう[#ルビの「きゆうりゆう」は底本では「きうりゆう」]の、
神秘な人工の威圧と、
沸沸ふつふつと迸ほとばしる銀白ぎんぱくの蒸気と、
爆はぜる火と、哮ほえる鉄と[#「鉄と」は底本では「鉄ど」]、
人間の動悸どうき、汗の香か、
および靴音とに、
絶えず窒息いきづまり、
絶えず戦慄せんりつする
伯林ベルリンの厳おごそかなる大停車場ぢやう。
ああ此処ここなんだ、世界の人類が
静止の代りに活動を、
善の代りに力を、
弛緩ちくわんの代りに緊張を、
平和の代りに苦闘を、
涙の代りに生血いきちを、
信仰の代りに実行を、
自みづから探し求めて出入でいりする、
現代の偉大な、新しい
生命を主とする本寺カテドラルは。
此処ここに大きなプラツトフオオムが
地中海の沿岸のやうに横たはり、
その下に波打つ幾線の鉄の縄が
世界の隅隅すみずみまでを繋つなぎ合せ、
それに断たえず手繰たぐり寄せられて、
汽車は此処ここへ三分間毎ごとに東西南北より著ちやくし、
また三分間毎ごとに東西南北へ此処ここを出て行ゆく。
此処ここに世界のあらゆる目覚めざめた人人ひとびとは、
髪の黒いのも、赤いのも、
目の碧あおいのも、黄いろいのも。
みんな乗りはづすまい、
降りはぐれまいと気を配り、
固もとより発車を報しらせる鈴べるも無ければ、
みんな自分で検しらべて大切な自分の「時とき」を知つてゐる。
どんな危険も、どんな冒険も此処ここにある。
どんな鋭音ソプラノも、どんな騒音も此処ここにある、
どんな期待も、どんな昂奮かうふんも、どんな痙攣けいれんも、
どんな接吻せつぷんも、どんな告別アデイユも此処ここにある。
どんな異国の珍しい酒、果物、煙草たばこ、香料、
麻、絹布けんふ、毛織物、
また書物、新聞、美術品、郵便物も此処ここにある。
此処ここでは何なにもかも全身の気息いきのつまるやうな、
全身の筋すぢのはちきれるやうな、
全身の血の蒸発するやうな、
鋭い、忙せはしい、白※はくねつ[#「執/れんが」、U+24360、259-下-1]の肉感の歓びに満ちてゐる。
どうして少しの隙すきや猶予があらう、
あつけらかんと眺めてゐる休息があらう、
乗り遅れたからと云いつて誰だれが気の毒がらう。
此処ここでは皆の人が唯ただ自分の行先ゆくさきばかりを考へる。
此処ここへ出入でいりする人人ひとびとは
男も女も皆選ばれて来た優者いうしやの風ふうがあり、
額ひたひがしつとりと汗ばんで、
光を睨にらみ返すやうな目附めつきをして、
口は歌ふ前のやうにきゆつと緊しまり、
肩と胸が張つて、
腰から足の先までは
きやしやな、しかも堅固な植物の幹が歩あるいてゐるやうである。
みんなの神経は苛苛いらいらとしてゐるけれど、
みんなの意志は悠揚いうやうとして、
鉄の軸のやうに正しく動いてゐる。
みんながどの刹那せつなをも空むなしくせずに
ほんとうに生きてる人達だ、ほんとうに動いてゐる人達だ。
あれ、巨象マンモス[#ルビの「マンモス」は底本では「モンマス」]のやうな大機関車を先さきにして、
どの汽車よりも大きな地響ぢひゞきを立てて、
ウラジホストツクからブリユツセルまでを、
十二日間で突破する、
ノオル・デキスプレスの最大急行列車が入はひつて来た。
怖おそろしい威厳を持つた機関車は
今、世界の凡すべての機関車を圧倒するやうにして駐とまつた。
ああ、わたしも是これに乗つて来たんだ、
ああ、またわたしも是これに乗つて行ゆくんだ。


和蘭陀の秋

秋の日が――
旅人の身につまされやすい
秋の日が夕ゆふべとなり、
薄むらさきに煙けぶつた街の
高い家いへと家いへとの間あひだに、
今、太陽が
万年青おもとの果みのやうに真紅しんくに
しつとりと濡ぬれて落ちて行ゆく。

反対な側がはの屋根の上には、
港の船の帆ばしらが
どれも色硝子いろがらすの棒を立て並べ、
そのなかに港の波が
幻惑の彩色さいしきを打混うちまぜて
ぎらぎらとモネの絵のやうに光る。
よく見ると、その波の半なかばは
無数の帆ばしらの尖さきから翻ひるがへる[#「翻へる」は底本では「翻へる。」]
細長い藍色あゐいろの旗である。

あなた、窓へ来て御覧なさい、
手紙を書くのは後あとにしませう、
まあ、この和蘭陀おらんだの海の
美うつくしい入日いりび。
わたし達は、まだ幸ひに若くて、
かうして、アムステルダムのホテルの
五階の窓に顔を並べて、
この佳よい入日いりびを眺めてゐるのですね。
と云いつて、
明日あすわたし達が此処ここを立つてしまつたら、
復またと此この港が見られませうか。

あれ、直すぐ窓の下の通りに、
猩猩緋しやう/″\ひの上衣うはぎを黒の上に著きた
一隊の男の児この行列、
何なんと云いふ可愛かはいい
小学の制服なんでせう。

ああ、東京の子供達は
どうしてゐるでせう。


同じ時

黒く大いなる起重機
我が五階の前に立ち塞ふさがり、
その下に数町すうちやう離れて
沖に掛かれる汽船の灯ひ
黄菊きぎくの花を並ぶ。
税関の彼方かなた、
桟橋に寄る浪なみのたぶたぶと
折折をりをりに鳴りて白し。
いづこの酒場の窓よりぞ、
ギタルに合はする船人ふなびとの唄うた
秋の夜風よかぜに混まじり、
波止場に沿ふ散歩道は
落葉おちばしたる木立こだちの幹に
海の反射淡く残りぬ。
うら寒し、はるばる来きつる
アムステルダムの一夜いちや。


※(「覊」の「馬」に代えて「奇」、第4水準2-88-38)愁きしう

知らざりしかな、昨日きのふまで、
わが悲かなしみをわが物と。
あまりに君にかかはりて。

君の笑ゑむ日をまのあたり
巴里パリイの街に見る我われの
あはれ何なにとて寂さびしきか。

君が心は躍をどれども、
わが※あつ[#「執/れんが」、U+24360、262-下-10]かりし火は濡ぬれて、
自みづからを泣く時のきぬ。

わが聞く楽がくはしほたれぬ、
わが見る薔薇ばらはうす白じろし、
わが執とる酒は酢に似たり。

ああ、わが心已やむ間まなく、
東の空にとどめこし
我子わがこの上に帰りゆく。


モンソオ公園の雀

君は何なにかを読みながら、
マロニエの樹きの染そみ出した
斜はすな径こみちを、花の香かの
濡ぬれて呼吸いきつく方かたへ去り、
わたしは毛欅ぶなの大木の
しだれた枝に日を避けて、
五色ごしきの糸を巻いたよな
円まるい花壇を左にし、
少しはなれた紫の
木立こだちと、青い水のよに
ひろがる芝を前にして、
絵具の箱を開あけた時、

おお、雀すゞめ、雀すゞめ、
一つ寄り、
二つ寄り、
はら、はら、はらと、
十とを、二十にじふ、数知れず、
きやしやな黄色きいろの椅子いすの前、
わたしへ向いて寄る雀すゞめ。

それ、お食べ、
それ、お食べ、
今日けふもわたしは用意して、
麺麭パンとお米を持つて来た。

それ、お食べ、
雀すゞめ、雀すゞめ、雀すゞめたち、
聖母の前の鳩はとのよに、
素直なかはいい雀すゞめたち。
わたしは国に居た時に、
朝起きても筆、
夜よが更けても筆、
祭も、日曜も、春秋はるあきも、
休む間ま無しに筆とつて、
小鳥に餌ゑをば遣やるやうな
気安い時を持たなんだ。

おお、美うつくしく円まるい背と
小ちさい頭とくちばしが
わたしへ向いて並ぶこと。
見れば何いづれも子のやうな、
わたしの忘れぬ子のやうな……
わたしは小声こごゑで呼びませう、
それ光ひかるさん、
かはいい七ななちやん、
しげるさん、麟坊りんばうさん、八峰やつを[#ルビの「やつを」は底本では「やつ」]さん……
あれ、まあ挙げた手に怖おそれ、
逃げる一つのあの雀すゞめ、
お前は里に居た為ために
親になじまぬ佐保さほちやんか。

わたしは何なにか云いつてゐた、
気が狂ちがふので無いか知ら……
どうして気安いことがあろ、
ああ、気に掛る、気に掛る、
子供の事が又しても……

せはしい日本の日送りも
心ならずに執とる筆も、
身の衰へも、わが髪の
早く落ちるも皆子ゆゑ。

子供を忘れ、身を忘れ、
こんな旅寝たびねを、はるばると
思ひ立つたは何なにゆゑか。
子をば育はぐくむ大切な
母のわたしの時間から、
雀すゞめに餌ゑをばやる暇を
偸ぬすみに来たは何なにゆゑか。

うつかりと君が言葉に絆ほだされて………

いいえ、いいえ、
みんなわたしの心から………

あれ、雀すゞめが飛んでしまつた。

それはあなたのせゐでした[#「せゐでした」は底本では「せいでした」]。
みんな、みんな、雀すゞめが飛んでしまひました。

あなた、わたしは何どうしても
先に日本へ帰ります。
もう、もう絵なんか描かきません。
雀すゞめ、雀すゞめ、
モンソオ公園の雀すゞめ、
そなたに餌ゑをも遣やりません。
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冷たい夕飯
   (雑詩卅四章)

 

我手の花

我手わがての花は人染そめず、
みづからの香かと、おのが色。
さはれ、盛りの短みじかさよ、
夕ゆふべを待たで萎しをれゆく。

我手わがての花は誰たれ知らん、
入日いりひの後のちに見る如ごとき
うすくれなゐを頬ほに残し、
淡き香かをもて呼吸いき[#ルビの「いき」は底本では「い」]すれど。

我手わがての花は萎しをれゆく……
いと小ささやかにつつましき
わが魂たましひの花なれば
萎しをれゆくまますべなきか。


一すぢ残る赤い路

藤ふぢとつつじの咲きつづく
四月五月に知り初そめて、
わたしは絶えず此処ここへ来る。
森の木蔭こかげを細こまやかに
曲つて昇る赤い路みち。

わたしは此処ここで花の香かに
恋の吐息の噴ふくを聞き、
広い青葉の翻かへるのに
若い男のさし伸べる
優しい腕の線を見た。

わたしは此処ここで鳥の音ねが
胸の拍子に合ふを知り、
花のしづくを美しい
蝶てふと一所いつしよに浴びながら、
甘い木この実を口にした。

今はあらはな冬である。
霜と、落葉おちばと、木枯こがらしと、
爛たゞれた傷を見るやうに
一ひとすぢ残る赤い路みち……
わたしは此処ここへ泣きに来る。


砂の塔

「砂を掴つかんで、日もすがら
砂の塔をば建てる人
惜しくはないか[#「ないか」は底本では「ないが」]、其時そのときが、
さては無益むやくな其その労が。

しかも両手で掴つかめども、
指のひまから砂が洩もる、
する、する、すると砂が洩もる、
軽かろく、悲しく、砂が洩もる。

寄せて、抑おさへて、積み上げて、
抱かゝへた手をば放す時、
砂から出来た砂の塔
直すぐに崩れて砂になる。」

砂の塔をば建てる人
これに答へて呟つぶやくは、
「時が惜しくて砂を積む、
命が惜しくて砂を積む。」


古巣より

空の嵐あらしよ、呼ぶ勿なかれ、
山を傾け、野を砕き、
所ところ定めず行ゆくことは
地に住むわれに堪たへ難がたし。

野の花の香かよ、呼ぶ勿なかれ、
若もし花の香かとなるならば
われは刹那せつなを香らせて
やがて跡なく消えはてん。

木この間まの鳥よ、呼ぶ勿なかれ、
汝なれは固もとより羽はねありて
枝より枝に遊びつつ、
花より花に歌ふなり。

すべての物よ、呼ぶ勿なかれ、
われは変らぬ囁さゝやきを
乏しき声にくり返し
初恋の巣にとどまりぬ。


人の言葉

善よしや、悪あしやを言ふ人の
稀まれにあるこそ嬉うれしけれ、
ものかずならで隅にある
わが歌のため、我われのため。

いざ知りたまへ、わが歌は
泣くに代へたるうす笑ひ、
灰に著きせたる色硝子いろがらす、
死に隣りたる踊をどりなり。

また知りたまへ、この我われは
春と夏とに行ゆき逢あはで、
秋の光を早く吸ひ、
月のごとくに青ざめぬ。


闇に釣る船
   (安成二郎氏の歌集「貧乏と恋と」の序詩)

真黒まつくろな夜よるの海で
わたしは一人ひとり釣つてゐる。
空には嵐あらしが吼ほえ、
四方しはうには渦が鳴る。

細い竿さをの割に
可かなり沢山たくさんに釣れた。
小さな船の中なか七分しちぶ通り
光る、光る、銀白ぎんぱくの魚さかなが。

けれど、鉤はりを離すと、直すぐ、
どの魚うをもみんな死あがつてしまふ。
わたしの釣らうとするのは
こんなんぢやない、決して。

わたしは知つてゐる、わたしの船が
だんだんと沖へ流れてゆくことを、
そして海がだんだんと
深く険けはしくなつてゆくことを。

そして、わたしの欲ほしいと思ふ
不思議な命の魚うをは
どうやら、わたしの糸のとどかない
底の底を泳いでゐる。

わたしは夜明よあけまでに
是非とも其魚そのうをが釣りたい。
もう糸では間まに合はぬ、
わたしは身を跳をどらして掴つかまう。

あれ、見知らぬ船が通る……
わたしは慄おのゝく……
もしや、あの船が先さきに
底の人魚を釣つたのぢやないか。


灰色の一路

ああ我等は貧し。
貧しきは
身に病やまひある人の如ごとく、
隠れし罪ある人の如ごとく、
また遠く流浪るろうする人の如ごとく、
常に怖おびえ、
常に安やすからず、
常に心寒こゝろさむし。

また、貧しきは
常に身を卑ひくくし、
常に力を売り、
常に他人と物の
駄獣だじうおよび器械となり、
常に僻ひがみ、
常に呟つぶやく。

常に苦くるしみ、
常に疲れ、
常に死に隣りし、
常に耻はぢと、恨みと、
常に不眠と飢うゑと、
常にさもしき欲と、
常に劇はげしき労働と、
常に涙とを繰返す。

ああ我等、
是これを突破する日は何時いつぞ、
恐らくは生せいのあなた、
死の時ならでは……
されど我等は唯ただ行ゆく、
この灰色の一路いちろを。


厭な日

こんな日がある。厭いやな日だ。
わたしは唯ただ一つの物として
地上に置かれてあるばかり、
何なんの力もない、
何なんの自由もない、
何なんの思想もない。

なんだか云いつてみたく、
なんだか動いてみたいと感じながら、
鳥の居ない籠かごのやうに
わたしは全まつたく空虚からである。
あの希望はどうした、
あの思出おもひではどうした。

手持不沙汰ぶさたでゐるわたしを
人は呑気のんきらしくも見て取らう、
また好いいやうに解釈して
浮世ばなれがしたとも云いふであろ、
口の悪わるい、噂うはさの好きな人達は
衰へたとも伝へよう。

何なんとでも言へ……とは思つてみるが、
それではわたしの気が済まぬ。


風の夜

をりをりに気が附つくと、
屋外そとには嵐あらし……
戸が寒相さむさうにわななき、
垣と軒のきがきしめく……
どこかで幽かすかに鳴る二点警鐘ふたつばん……

子供等を寝かせたのは
もう昨日きのふのことのやうである。
狭い書斎の灯ひの下もとで
良人をつとは黙つて物を読み、
わたしも黙つて筆を執とる。

きり……きり……きり……きり……
何なにかしら、冴さえた低い音が、
ふと聞きこえて途切とぎれた……
きり……きり……きり……きり……
あら、また途切とぎれた……

嵐あらしの音にも紛れず、
直すぐ私の後ろでするやうに、
今したあの音は、
臆病おくびやうな、低い、そして真剣な音だ……
命のある者の立てる快い音だ……

或ある直覚が私に閃ひらめく……鋼鉄質の其その音……
私は小さな声で云いつた、
「あなた、何なにか音がしますのね」
良人をつとは黙つてうなづいた。
其時そのときまた、きり……きり……きり……きり……

「追つて遣やらう、
今夜なんか這入はひ[#ルビの「はひ」は底本では「はい」]られては、
こちらから謝らなければならない」
と云いつて、良人をつとは、
笑ひながら立ち上がつた。

私は筆を止やめずにゐる。
私には今の、嵐あらしの中で戸を切る、
臆病おくびやうな、低い、そして真剣な音が
自分の仕事の伴奏のやうに、[#「やうに、」は底本では「やうに。」]
ぴつたりと合つて快い。

もう女中も寝たらしく、
良人をつとは次の間まで、
みづから燐寸まつちを擦つて、
そして手燭てしよくと木太刀きだちとを提さげて、
廊下へ出て行つた。

間まも無く、ちり、りんと鈴が鳴つて、
門の潜くゞり戸が幽かすかに開あいた。
「逃げたのだ、泥坊が」と、
私は初めてはつきり
嵐あらしの中の泥坊に気が附ついた。

私達の財嚢ぜにいれには、今夜、
小さな銀貨一枚しか無い。
私は私達の貧乏の惨めさよりも、
一人ひとりの知らぬ男の無駄骨を気の毒に思ふ。
きり……きり……きり……きり……と云いふ音がまだ耳にある。


小猫

小猫、小猫、かはいい小猫、
坐すわれば小ちさく、まんまろく、
歩けばほつそりと、
美うつくしい、真まつ白な小猫、
生れて二月ふたつきたたぬ間まに
孤蝶こてふ様のお宅から
わたしのうちへ来た小猫。

子供達が皆寝て、夜よが更けた。
一人ひとりわたしが蚊に食はれ
書斎で黙つて物を書けば、
小猫よ、おまへは寂さびしいか、
わたしの後ろに身を擦り寄せて
小娘のやうな声で啼なく。

こんな時、
先さきの主人あるじはお優しく
そつとおまへを膝ひざに載せ
どんなにお撫なでになつたことであろ。
けれど、小猫よ、
わたしはおまへを抱く間まがない、
わたしは今夜
もうあと十枚書かねばならんのよ。

夜よがますます更けて、
午前二時の上野の鐘が幽かすかに鳴る。
そして、何なににじやれるのか、
小猫の首の鈴が
次の間まで鳴つてゐる。


記事一章

今は
(私は正しく書いて置く、)
一千九百十六年一月十日の
午前二時四十しじふ二分。
そして此時このときから十七じふしち分前に、
一つの不意な事件が
私を前後不覚に
くつくつと笑はせた。

宵の八時に
子供達を皆寝かせてから、
良人をつとと私はいつもの通り、
全まつたく黙つて書斎に居た。
一人ひとりは書物に見入つて
折折をりをりそつと辞書を引き、
一人ひとりは締切しめきりに遅れた
雑誌の原稿を書いて居た。
毎夜まいよの習はし……
飯田町いひだまちを発した大貨物列車が
崖上がけうへの中古ちゆうぶるな借家しやくやを
船のやうに揺盪ゆすつて通つた。
この器械的地震に対して
私達の反応は鈍い、
唯ただぼんやり
もう午前二時になつたと感じた外ほかは。

それから間まも無くである。
庭に向いて机を据ゑた私と
雨戸を中に一尺の距離もない
直すぐ鼻の先の外そとで、
突然、一つの嚔くしやみが破裂した、
「泥坊の嚔くしやみだ、」
刹那せつなにかう直感した私は
思はずくつくつと笑つた。

「何なんだね」と良人をつとが振ふり向いた時、
其その不可抗力の声に気まり悪く、
あわてて口を抑おさへて、
そつと垣の向うへ逃げた者がある。
「泥坊が嚔くしやみをしたんですわ、」
大洋の底のやうな六時間の沈黙が破れて、
二人ふたりの緊張が笑ひに融とけた。
こんなに滑稽こつけいな偶然と見える必然が世界にある。


川原かはら[#ルビの「かはら」は底本では「かははら」]の底の底の価あたひなき
砂の身なれば人採とらず、
風の吹く日は塵ちりとなり
雨の降る日は泥となり、
人、牛、馬の踏むままに
圧おしひしがれて世にありぬ。
稀まれに川原かはらのそこ、かしこ、
れんげ、たんぽぽ、月見草つきみさう、
ひるがほ、野菊、白百合しろゆりの
むらむらと咲く日もあれど、
流れて寄れる種なれば
やがて流れて跡も無し。


怖ろしい兄弟

ここの家いへの名前人なまへにんは
総領の甚六がなつてゐる。
欲ばかり勝かつて
思ひやりの欠けてゐる兄だ。
不意に、隣の家うちへ押しかけて、
庇かばひ手のない老人としよりの
半身不随の亭主に、
「きさまの持つてゐる
目ぼしい地所や家蔵いへくらを寄越よこせ。
おらは不断おめえに恩を掛けてゐる。
おらが居ねえもんなら、
おめえの財産なんか
遠とほの昔に
近所から分わけ取どりにされて居たんだ。
その恩返おんかへしをしろ」と云いつた。
なんぼよいよいでも、
隣の爺おやぢには、性根しやうねがある。
あるだけの智慧をしぼつて
甚六の言ひ掛がかりを拒こばんだ。
押問答が長引いて、
二人ふたりの声が段段と荒くなつた。
文句に詰つた甚六が
得意な最後の手を出して、
拳こぶしを振上げ相さうになつた時、
大勢の甚六の兄弟が
がやがやと寄つて来た。
「腰が弱よゑいなあ、兄貴、」
「脅おどしが足りねえなあ、兄貴、」
「もつと相手をいぢめねえ、」
「なぜ、いきなり刄物はものを突き附つけねえんだ、」
「文句なんか要いらねえ、腕づくだ、腕づくだ、」
こんなことを口口くちぐちに云いつて、
兄を罵のゝしる兄弟ばかりである、
兄を励ます兄弟ばかりである。
ほんとに兄を思ふ心から、
なぜ無法な言ひ掛がかりなんかしたんだと
兄の最初の発言を
咎とがめる兄弟とては一人ひとりも居なかつた。
おお、怖おそろしい此処ここの家いへの
名前人なまへにんと家族。


駄獣だじうの群むれ

ああ、此この国の
怖おそるべく且かつ醜き
議会の心理を知らずして
衆議院の建物を見上ぐる勿なかれ。
禍わざはひなるかな、
此処ここに入はひる者は悉ことごとく変性へんせいす。
たとへば悪貨の多き国に入いれば
大英国の金貨も
七日なぬかにて鑢やすりに削り取られ
其その正しき目方を減ずる如ごとく、
一たび此この門を跨またげば
良心と、徳と、
理性との平衝を失はずして
人は此処ここに在り難がたし。
見よ、此処ここは最も無智なる、
最も敗徳はいとく[#「敗徳」はママ]なる、
はた最も卑劣無作法なる
野人やじん本位を以もつて
人の価値を
最も粗悪に平均する処ところなり。
此処ここに在る者は
民衆を代表せずして
私党を樹たて、
人類の愛を思はずして
動物的利己を計り、
公論の代りに
私語と怒号と罵声ばせいとを交換す。
此処ここにして彼等の勝つは
固もとより正義にも、聡明そうめいにも、
大胆にも、雄弁にもあらず、
唯ただ彼等互たがひに
阿附あふし、模倣し、
妥協し、屈従して、
政権と黄金わうごんとを荷になふ
多数の駄獣だじうと
みづから変性へんせいするにあり。
彼等を選挙したるは誰たれか、
彼等を寛容しつつあるは誰たれか。
此この国の憲法
彼等を逐おふ力無し、
まして選挙権なき
われわれ大多数の
貧しき平民の力にては……
かくしつつ、年毎としごとに、
われわれの正義と愛、
われわれの血と汗、
われわれの自由と幸福は
最も臭くさく醜き
彼等駄獣だじうの群むれに
寝藁ねわらの如ごとく踏みにじらる……


或年の夏

米の値ねの例れいなくも昂あがりければ、
わが貧しき十人じふにんの家族は麦を食らふ。
わが子らは麦を嫌ひて
「お米の御飯を」と叫べり。
麦を粟あはに、また小豆あづきに改むれど、
猶なほわが子らは「お米の御飯を」と叫べり。
わが子らを何なんと叱しからん、
わかき母も心には米を好めば。

「部下の遺族をして
窮する者無からしめ給たまはんことを。
わが念頭に掛かるもの是これのみ」と、
佐久間大尉の遺書を思ひて、
今更にこころ咽むせばるる。


三等局集配人(押韻

わたしは貧しき生れ、
小学を出て、今年十八。
田舎の局に雇はれ、
一日に五ごヶ村そんを受持ち、
集配をして身は疲れ、

暮れて帰れば、母と子と
さびしい膳ぜんのさし向ひ、
蜆しゞみの汁で、そそくさと
済ませば、何なんの話も無い。
たのしみは湯へ行ゆくこと。

湯で聞けば、百姓の兄さ、
皆読んで来て善よくする、
大衆文学の噂うはさ。
わたしは唯ただ知つてゐる、
その円本ゑんほんを配る重さ。

湯が両方の足に沁しむ。
垢あかと土とで濁にごされた
底でしばらく其それを揉もむ。
ああ此この足が明日あすもまた
桑の間あひだの路みちを踏む。

この月も二十日はつかになる。
すこしの楽らくも無い、
もう大きな雑誌が来る。
やりきれない、やりきれない、
休めば日給が引かれる。

小説家がうらやましい、
菊池寛くわんも人なれ、
こんな稼業は知るまい。
わたしは人の端くれ、
一日八十銭の集配。


バビロン人の築きたる
雲間くもまの塔は笑ふべし、
それにまさりて呪のろはしき
巨大の塔は此処ここにあり。

千億の石を積み上げて、
横は世界を巻きて展のび、
劔つるぎを植ゑし頂いたゞきは
空わたる日を遮さへぎりぬ。

何なにする壁ぞ、その内に
今日けふを劃しきりて、人のため、
ひろびろしたる明日あすの日の
目路めぢに入いるをば防ぎたり。

壁の下もとには万年の
小暗をぐらき蔭かげの重かさなれば、
病むが如ごとくに青ざめて
人は力を失ひぬ。

曇りたる目の見難みがたさに
行ゆく方かた知らず泣くもあり、
羊の如ごとく押し合ひて
血を流しつつ死ぬもあり。

ああ人皆よ、何なにゆゑに
古代の壁を出いでざるや、
永久とはの苦痛に泣きながら
猶なほその壁を頼めるや。

をりをり強き人ありて
怒いかりて鉄の槌つちを振り、
つれなき壁の一隅ひとすみを
崩さんとして穿うがてども、

衆を協あはせし[#「協せし」は底本では「恊せし」]凡夫ぼんぷ等は
彼かれを捕とらへて撲うち殺し、
穿うがちし壁をさかしらに
太き石もて繕つくろひぬ。

さは云いへ壁を築きしは
もとより世世よよの凡夫ぼんぶなり、
稀まれに出いで来くる天才の
至上の智慧に及ばんや。

時なり、今ぞ飛行機と
大重砲だいぢゆうはうの世は来きたる。
見よ、真先まつさきに、日の方かたへ、
「生きよ」と叫び飛ぶ群むれを。


不思議の街

遠い遠い処ところへ来て、
わたしは今へんな街を見てゐる。
へんな街だ、兵隊が居ない、
戦争いくさをしようにも隣の国がない。
大学教授が消防夫を兼ねてゐる。
医者が薬価を取らず、
あべこべに、病気に応じて、
保養中の入費にふひにと
国立銀行の小切手を呉くれる。
悪事を探訪する新聞記者が居ない、
てんで悪事が無いからなんだ。
大臣は居ても官省くわんしやうが無い、
大臣は畑はたけへ出てゐる、
工場こうぢやうへ勤めてゐる、
牧場ぼくぢやうに働いてゐる、
小説を作つてゐる、絵を描いてゐる。
中には掃除車の御者ぎよしやをしてゐる者もある。
女は皆余計なおめかしをしない、
瀟洒せうしやとした清い美を保つて、
おしやべりをしない、
愚痴と生意気を云いはない、
そして男と同じ職を執とつてゐる。
特に裁判官は女の名誉職である。
勿論もちろん裁判所は民事も刑事も無い、
専もつぱら賞勲の公平を司つかさどつて、
弁護士には臨時に批評家がなる。
併しかし長長ながながと無用な弁を振ふるひはしない、
大抵は黙つてゐる、
稀まれに口を出しても簡潔である。
それは裁決を受ける功労者の自白が率直だからだ、[#「だからだ、」は底本では「だからだ」]
同時に裁決する女が聡明そうめいだからだ。
また此この街には高利貸がない、
寺がない、教会がない、
探偵がない、
十種以上の雑誌がない、
書生芝居がない、
そのくせ、内閣会議も、
結婚披露も、葬式も、
文学会も、絵の会も、
教育会も、国会も、
音楽会も、踊をどりも、
勿論もちろん名優の芝居も、
幾つかある大国立劇場で催してゐる。
全まつたくへんな街だ、
わたしの自慢の東京と
大おほちがひの街だ。
遠い遠い処ところへ来て
わたしは今へんな街を見てゐる。


女は掠奪者

大百貨店の売出うりだしは
どの女の心をも誘惑そそる、
祭よりも祝いはひよりも誘惑そそる。
一生涯、異性に心引かれぬ女はある、
子を生まうとしない女はある、
芝居を、音楽を、
茶を、小説を、歌を好まぬ女はある。
凡おほよそ何処どこにあらう、
三越みつこしと白木屋しろきやの売出うりだしと聞いて、
胸を跳をどらさない女が、
俄にはかに誇大妄想家とならない女が。……
その刹那せつな、女は皆、
(たとへ半反はんたんのモスリンを買ふため、
躊躇ちうちよして、見切場みきりばに
半日はんにちを費つひやす身分の女とても、)
その気分は貴女きぢよである、
人の中の孔雀くじやくである。
わたしは此この華やかな気分を好く。
早く神を撥無はつむしたわたしも、
美の前には、つつましい
永久の信者である。

けれども、近頃ちかごろ、
わたしに大きな不安と
深い恐怖とが感ぜられる。
わたしの興奮は直すぐに覚め、
わたしの狂※きやうねつ[#「執/れんが」、U+24360、290-上-13]は直すぐに冷えて行ゆく。
一瞬の後のちに、わたしは屹度きつと、
「馬鹿ばかな亜弗利加アフリカの僭王せんわうよ」
かう云いつて、わたし自身を叱しかり、
さうして赤面し、
はげしく良心的に苦くるしむ。

大百貨店の閾しきゐを跨またぐ女に
掠奪者でない女があらうか。
掠奪者、この名は怖おそろしい、
しかし、この名に値する生活を
実行して愧はぢぬ者は、
ああ、世界無数の女ではないか。
(その女の一人ひとりにわたしがゐる。)
女は父の、兄の、弟の、
良人をつとの、あらゆる男子の、
知識と情※じやうねつ[#「執/れんが」、U+24360、290-下-14]と血と汗とを集めた
労働の結果である財力を奪つて
我物わがものの如ごとくに振舞つてゐる。
一掛ひとかけの廉やす半襟を買ふ金かねとても
女自身の正当な所有では無い。
女が呉服屋へ、化粧品屋へ、
貴金属商へ支払ふ
あの莫大ばくだいな額の金かねは
すべて男子から搾取するのである。

女よ、
(その女の一人ひとりにわたしがゐる、)
無智、無能、無反省なお前に
男子からそんなに法外な報酬を受ける
立派な理由が何処どこにあるか。
お前は娘として
その華麗な服装に匹敵する
どんなに気高けだかい愛を持ち、
どんなに聡明そうめいな思想を持つて、
世界の青年男子に尊敬され得うるか。
お前は妻として
どれだけ良人をつとの職業を理解し、
どれだけ其それを助成したか。
お前は良人をつとの伴侶はんりよとして
対等に何なんの問題を語り得うるか。
お前は一日の糧かてを買ふ代しろをさへ
自分の勤労で酬むくいられた事があるか。
お前は母として
自分の子供に何なにを教へたか。
お前からでなくては与へられない程の
立派な精神的な何物なにものかを
少しでも自分の子供に吹き込んだか。
お前は第一母たる真の責任を知つてゐるか。

ああ、わたしは是これを考へる、
さうして戦慄せんりつする。
憎むべく、咀のろふべく、憐あはれむべく、
愧はづべき女よ、わたし自身よ、
女は掠奪者、その遊惰性いうだせいと
依頼性とのために、
父、兄弟、良人をつとの力を盗み、
可愛かはいい我子わがこの肉をさへ食はむのである。

わたしは三越みつこしや白木屋しろきやの中の
華やかな光景を好く。
わたしは不安も恐怖も無しに
再び「美」の神を愛したいと願ふ。
しかし、それは勇気を要する。
わたしは男に依よる寄生状態から脱して、
わたしの魂たましひと両手を
わたし自身の血で浄きよめた後のちである。
わたしは先まづ働かう、
わたしは一切の女に裏切る、
わたしは掠奪者の名から脱のがれよう。

女よ、わたし自身よ、
お前は一村いつそん、一市、一国の文化に
直接なにの貢献があるか。
大百貨店の売出うりだしに
お前は特権ある者の如ごとく、
その矮ひくい、蒼白そうはくなからだを、
最上最貴の
有勲者いうくんしやとして飾らうとする。
ああ、男の法外な寛容、
ああ、女の法外な僭越せんえつ。
(一九一八年作)


冷たい夕飯

ああ、ああ、どうなつて行いくのでせう、
智慧も工夫も尽きました。
それが僅わづかなおあしでありながら、
融通の附つかないと云いふことが
こんなに大きく私達を苦くるしめます。
正たゞしく受取る物が
本屋の不景気から受取れずに、
幾月いくつきも苦しい遣繰やりくりや
恥を忘れた借りを重ねて、
ああ、たうとう行ゆきづまりました。

人は私達の表面うはべを見て、
くらしむきが下手へただと云いふでせう。
もちろん、下手へたに違ひありません、
でも、これ以上に働くことが
私達に出来るでせうか。
また働きに対する報酬の齟齬そごを
これ以下に忍ばねばならないと云いふことが
怖おそろしい禍わざはひでないでせうか。
少なくとも、私達の大勢の家族が
避け得られることでせうか。

今日けふは勿論もちろん家賃を払ひませなんだ、
その外ほかの払ひには
二月ふたつきまへ、三月みつきまへからの借りが
義理わるく溜たまつてゐるのです。
それを延ばす言葉も
今までは当てがあつて云いつたことが
已やむを得ず嘘うそになつたのでした。
しかし、今日けふこそは、
嘘うそになると知つて嘘うそを云いひました。
どうして、ほんたうの事が云いはれませう。

何なにも知らない子供達は
今日けふの天長節を喜んでゐました。
中にも光ひかるは
明日あすの自分の誕生日を
毎年まいとしのやうに、気持よく、
弟や妹達と祝ふ積つもりでゐます。
子供達のみづみづしい顔を
二つのちやぶ台の四方しはうに見ながら、
ああ、私達ふたおやは
冷たい夕飯ゆふはんを頂きました。

もう私達は顛覆てんぷくするでせう、
隠して来たぼろを出すでせう、
体裁を云いつてゐられないでせう、
ほんたうに親子拾何人が餓かつゑるでせう。
全まつたくです、私達を
再び立て直す日が来ました。
耻と、自殺と、狂気とにすれすれになつて、
私達を試みる
赤裸裸の、極寒ごくかんの、
氷のなかの日が来ました。
(一九一七年十二月作)


真珠貝

真珠の貝は常に泣く。
人こそ知らね、大海おほうみは
風吹かぬ日も浪なみ立てば、
浪なみに揺られて貝の身の
処ところさだめず伏しまろび、
千尋ちひろの底に常に泣く。

まして、たまたま目に見えぬ
小さき砂の貝に入いり
浪なみに揺らるる度たびごとに
敏さとく優やさしき身を刺せば、
避くる由よしなき苦しさに
貝は悶もだえて常に泣く。

忍びて泣けど、折折をりをりに
涙は身よりにじみ出いで、
貝に籠こもれる一点の
小さき砂をうるほせば、
清く切なきその涙
はかなき砂を掩おほひつつ、
日ごとに玉たまと変れども、
貝は転まろびて常に泣く。

東に昇る「あけぼの」は
その温あたたかき薔薇ばら色を、
夜よる行ゆく月は水色を、
虹にじは不思議の輝きを、
ともに空より投げかけて、
砂は真珠となりゆけど、
それとも知らず、貝の身は
浪なみに揺られて常に泣く。


浪のうねり

島の沖なる群青ぐんじやうの
とろりとしたる海の色、
ゆるいうねりが間まを置いて
大きな梭をさを振る度たびに
釣船一つ、まろまろと
盥たらひのやうに高くなり、
また傾きて低くなり、
空と水とに浮き遊ぶ。
君と住む身も此これに似て
ひろびろとした愛なれば、
悲しきことも嬉うれしきも
唯ただ永き日の波ぞかし。


夏の歌

あはれ、快きは夏なり。
万年の酒男さかをとこ太陽は
一時ひとときにその酒倉さかぐらを開あけて、
光と、※ねつ[#「執/れんが」、U+24360、297-上-1]と、芳香はうかうと、
七色なないろとの、
巨大なる罎ブタイユの前に
人を引く。

あはれ、快きは夏なり。
人皆ギリシヤの古いにしへの如ごとく
うすき衣きぬ[#ルビの「きぬ」は底本では「ぎぬ」]を著つけ、
はた生れながらの
裸となりて、
飽くまでも、湯の如ごとく、
光明くわうみやう歓喜くわんぎの酒を浴ぶ。

あはれ、快きは夏なり。
人皆太陽に酔ゑへる時、
忽たちまち前に裂くるは
夕立のシトロン。
さて夜よるとなれば、
金属質の涼風すゞかぜと
水晶の月、夢を揺ゆする。


五月の歌

ああ五月ごぐわつ、我等の世界は
太陽と、花と、麦の穂と、
瑠璃るりの空とをもて飾られ、
空気は酒室さかむろの呼吸いきの如ごとく甘く、
光は孔雀くじやくの羽はねの如ごとく緑金りよくこんなり。
ああ五月ごぐわつ、万物は一新す、
竹の子も地を破り、
どくだみの花も蝶てふを呼び、
蜂はちも卵を産む。
かかる時に、母の胎を出いでて
清く勇ましき初声うぶごゑを揚ぐる児こ、
抱寝だきねして、其児そのこに
初めて人間のマナを飲まする母、
はげしき※愛ねつあい[#「執/れんが」、U+24360、298-上-7]の中に手を執とる
婚莚こんえんの夜よの若き二人ふたり、
若葉に露の置く如ごとく額ひたひに汗して、
桑を摘み、麻を織る里人さとびと、
共に何なにたる景福けいふくの人人ひとびとぞ。
たとひ此この日、欧洲の戦場に立ちて、
鉄と火の前に、
大悪だいあく非道の犠牲とならん勇士も、
また無料宿泊所の壁に凭よりて
明日あすの朝飯あさはんの代しろを持たぬ無職者も、
ああ五月ごぐわつ、此この月に遇あへることは
如何いかに力満ちたる実感の生せいならまし。


ロダン夫人の賜へる花束

とある一つの抽斗ひきだしを開きて、
旅の記念の絵葉書をまさぐれば、
その下より巴里パリイの新聞に包みたる
色褪いろあせし花束は現れぬ。
おお、ロダン先生の庭の薔薇ばらのいろいろ……
我等二人ふたりはその日を如何いかで忘れん、
白髪しらがまじれる金髪の老貴女きぢよ、
濶ひろき梔花色くちなしいろの上衣うはぎを被はおりたる、
けだかくも優やさしきロダン夫人は、
みづから庭に下おりて、
露おく中に摘みたまひ、
我をかき抱いだきつつ是これを取らせ給たまひき。

花束よ、尊たふとく、なつかしき花束よ、
其その日の幸ひは猶なほ我等が心に新しきを、
纔わづかに三年の時は
無残にも、汝そなたを
埃及エヂプトのミイラに巻ける
五千年前ぜんの朽ちし布の
すさまじき茶褐色に等しからしむ。

われは良人をつとを呼びて、
曾かつて其その日の帰路きろ、
夫人が我等を載せて送らせ給たまひし
ロダン先生の馬車の上にて、
今一人ひとりの友と三人みたり
感激の中に嗅かぎ合ひし如ごとく、
額ぬかを寄せて嗅かがんとすれば、
花は臨終いまはの人の歎く如ごとく、
つと仄ほのかなる香にほひを立てながら、
二人ふたりの手の上に
さながら焦げたる紙の如ごとく、
あはれ、悲し、
ほろほろと砕け散りぬ。

おお、われは斯かかる時、
必ず冷ひややかにあり難がたし、
我等が歓楽も今は
此この花と共に空むなしくやなるらん。
許したまへ、
涙を拭ぬぐふを。

良人をつとは云いひぬ、
「わが庭の薔薇ばらの下もとに
この花の灰を撒まけよ、
日本の土が
是これに由よりて浄きよまるは
印度いんどの古き仏の牙きばを
教徒の齎もたらせるに勝まさらん。」


暑き日の午前

暑し、暑し、
曇りたる日の温気うんきは
油あぶら障子の中にある如ごとし。
狭き書斎に陳のべたる
十鉢とはちの朝顔の花は
早くも我に先立ちて※ねつ[#「執/れんが」、U+24360、300-下-4]を感じ、
友禅の小切こぎれの
濡ぬれて撓たわめる如ごとく、
また、書きさして裂きて丸まろめし
或ある時の恋の反古ほごの如ごとく、
はかなく、いたましく、
みすぼらしく打萎うちしをれぬ。
暑し、暑し、
机の蔭かげよりは
小ちひさく憎き吸血魔
藪蚊やぶかこそ現れて、
膝ひざを、足を、刺し初む。
されど、アウギユストは元気にて
彼方かなたの縁に水鉄砲を弄いぢり、
健けんはすやすやと
枕蚊帳まくらかやの中に眠れり。
この隙すきに、君よ、
筆を擱おきて、
浴びたまはずや、水を。
たた、たたと落つる
水道の水は細けれど、
その水音みづおとに、昨日きのふ、
ふと我は偲しのびき、
サン・クルウの森の噴水。


隠れ蓑

わたしの庭の「かくれみの」
常緑樹ときはぎながらいたましや、
時も時とて、茱萸ぐみ[#ルビの「ぐみ」は底本では「ぐ」]にさへ、
枳殻からたちにさへ花の咲く
夏の初めにいたましや、
みどりの枝のそこかしこ、
たまたまひと葉は二葉ふたはづつ
日毎ひごとに目立つ濃い鬱金うこん、
若い白髪しらがを見るやうに
染めて落ちるがいたましや。
わたしの庭の「かくれみの、」
見れば泣かれる「かくれみの。」


夜の机

西洋蝋燭らふそくの大理石よりも白きを硝子がらすの鉢に燃もやし、
夜更よふくるまで黒檀こくたんの卓に物書けば幸福しあはせ多きかな。
あはれこの梔花色くちなしいろの明りこそ
咲く花の如ごとき命を包む想像の狭霧さぎりなれ。

これを思へば昼は詩人の領りやうならず、
天あまつ日は詩人の光ならず、
蓋けだし阿弗利加アフリカを沙漠さばくにしたる悪あしき※ねつ[#「執/れんが」、U+24360、302-上-7]の気息いきのみ。

うれしきは夢と幻惑と暗示とに富める白蝋はくらふの明り。
この明りの中に五感と頭脳とを越え、
全身をもて嗅かぎ、触れ、知る刹那せつな――
一切と個性とのいみじき調和、
理想の実現せらるる刹那せつなは来きたり、
ニイチエの「夜よるの歌」の中なる「総すべての泉」の如ごとく、
わが歌は盛高もりだかになみなみと迸ほとばしる。


きちがひ茄子

とん、とん、とんと足拍子、
洞ほらを踏むよな足拍子、
つい嬉うれしさに、秋の日の
長い廊下を走つたが、
何処どこをどう行ゆき、どう探し、
何どうして採とつたか覚えねど、
わたしの袂たもとに入はひつてた
きちがひ茄子なすと笑ひ茸たけ。
わたしは夢を見てゐるか、
もう気ちがひになつたのか、
あれ、あれ、世界が火になつた。
何処どこかで人の笑ふ声。


花子の歌四章(童謡)

九官鳥
九官鳥はいつの間まに
誰だれが教へて覚えたか、
わたしの名をばはつきりと
優しい声で「花子さん。」

「何なにか御用」と問うたれば、
九官鳥の憎らしや、
聞かぬ振ふりして、間まを置いて、
「ちりん、ちりん」と電鈴ベルの真似まね。

「もう知らない」と行ゆきかけて
わたしが云いへば、後ろから、
九官鳥のおどけ者、
「困る、困る」と高い声。


薔薇と花子
花子の庭の薔薇ばらの花、
花子の植ゑた薔薇ばらなれば
ほんによう似た花が咲く。
色は花子の頬ほの色に、
花は花子のくちびるに、
ほんによう似た薔薇ばらの花。

花子の庭の薔薇ばらの花、
花が可愛かはいと、太陽も
黄金きんの油を振撒ふりまけば、
花が可愛かはいと、そよ風も
人目に見えぬ波形なみがたの
薄い透綾すきやを著きせに来る。

側そばで花子の歌ふ日は
薔薇ばらも香りの気息いきをして
花子のやうな声を出し、
側そばで花子の踊る日は
薔薇ばらもそよろと身を揺ゆすり
花子のやうな振ふりをする。

そして花子の留守の日は
涙をためた目を伏せて、
じつと俯うつ向く薔薇ばらの花。
花の心のしをらしや、
それも花子に生き写し。
花子の庭の薔薇ばらの花。


花子の熊
雪がしとしと降つてきた。
玩具おもちやの熊くまを抱きながら、
小さい花子は縁に出た。

山に生れた熊くまの子は
雪の降るのが好きであろ、
雪を見せよと縁に出た。

熊くまは冷たい雪よりも、
抱いた花子の温かい
優しい胸を喜んだ。

そして、花子の手の中で、
玩具おもちやの熊くまはひと寝入り。
雪はますます降り積つもる。


蜻蛉とんぼの歌
汗の流れる七月は
蜻蛉とんぼも夏の休暇おやすみか。
街の子供と同じよに
避暑地の浜の砂に来て
群れつつ薄い袖そでを振る。

小ちさい花子が昼顔の
花を摘まうと手を出せば、
これをも白い花と見て
蜻蛉とんぼが一つ指先へ
ついと気軽に降りて来た。

思はぬ事の嬉うれしさに
花子の胸は轟とゞろいた。
今美うつくしい羽はねのある
小ちさい天使がじつとして
花子の指に止まつてる。


手の上の花

鴨頭草つきくさの花、手に載せて
見れば涼しい空色の
花の瞳ひとみがさし覗のぞく、
わたしの胸の寂さびしさを。

鴨頭草つきくさの花、空色の
花の瞳ひとみのうるむのは、
暗い心を見透とほして、
わたしのために歎くのか。

鴨頭草つきくさの花、しばらくは
手にした花を捨てかねる。
土となるべき友ながら、
我も惜をしめば花も惜し。

鴨頭草つきくさの花、夜よとなれば、
ほんにそなたは星の花、
わたしの指を枝として
しづかに銀の火を点ともす。


一隅いちぐうにて

われは在り、片隅に。
或ある時は眠げにて、
或ある時は病める如ごとく、
或ある時は苦笑を忍びながら、
或ある時は鉄の枷かせの
わが足にある如ごとく、
或ある時は飢ゑて
みづからの指を嘗なめつつ、
或ある時は涙の壺つぼを覗のぞき、
或ある時は青玉せいぎよくの
古き磬けいを打ち、
或ある時は臨終の
白鳥はくてうを見守り、
或ある時は指を挙げて
空に歌を書きつつ………
寂さびし、いと寂さびし、
われはあり、片隅に。


午前三時の鐘

上野の鐘が鳴る。
午前三時、
しんしんと更けわたる
十一月の初めの或夜あるよるに、
東京の街の矮ひくい屋根を越えて、
上野の鐘が鳴る。
この声だ、
日本人の心の声は。
この声を聞くと
日本人の心は皆おちつく、
皆静かになる、
皆自力じりきを麻痺まひして
他力たりきの信徒に変る。
上野の鐘が鳴る。
わたしは今、ちよいと
痙攣けいれん的な反抗が込み上げる。
けれど、わたしの内にある
祖先の血の弱さよ、はかなさよ、
明方あけがたの霜の置く
木の箱の家いへの中で、
わたしは鐘の声を聞きながら、
じつと滅入めいつて
筆の手を休める。
上野の鐘が鳴る。


或日の寂しさ

門かどに立つのは
うその苦学生
うその廃兵、
うその主義者、志士、
馬車、自動車に乗るのは
うその紳士、大臣、
うその貴婦人、レディイ、
それから、新聞を見れば
うその裁判、
うその結婚、
さうして、うその教育。
浮世小路こうぢは繁しげけれど、
ついぞ真まことに行ゆき遇あはぬ。
[#ここで段組み終わり]
[#改ページ]

 今年畏かしこくも御ご即位の大典を挙げさせ給たまふ拾一月の一日いちじつに、此この集の校正を終りぬ。読み返し行ゆくに、愧はづかしきことのみ多き心の跡なれば、昭あきらかに和やはらぎたる新あらた代よの御光みひかりの下もとには、ひときは出いだし苦ぐるしき心地ぞする。晶子

 

 

晶子詩篇全集 終

 


底本:「晶子詩篇全集」実業之日本社
   1929(昭和4)年1月20日発行

青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

 

 

俵 万智 「サラダ記念日」

 

黙ののちの言葉を選びおる君のためらいを楽しんでおり

 

また電話しろよと言って受話器置く君に今すぐ電話をしたい

 

大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋

 

あいみてののちょの心の夕まぐれ君だけがいる風景である

 

球場に作り出される真昼間を近景として我ら華やぐ

 

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ

 

卵二つ真剣勝負で茹でているネーブルにおう日曜の朝

 

君と食む三百円のあなごずしそのおいしさを恋とこそ知れ

 

まちちゃん我を呼ぶとき青年のその一瞬のためらいが好き

 

令和の日常

十三の私が愛したサガンの本朝吹訳は音楽だった

            稲沢 家田満理

ハチ公は生誕百年どれほどの人がそこで待ち合わせただろう

            京都 中尾素子

それぞれの人のこころにひとひらの花びら散らす桜の古木

            船橋 片井俊二

雷門の柱の裾に腰おろし眺め廻すも旧人われは

               清水房雄

満州丸の舷に整列「弥栄」(いやさか)と三喝せる高き声忘れず

       満蒙開拓青少年義勇軍 中野照子

日はまさに辰巳の方より牡丹の花にまとも照らすも

               大塚布見子

妻を描く「湖畔」愛人を描く「読書」黒田清輝初期の傑作

               奥村晃作

スパークリングワインを抜いて海老を食みやはりめでたき男のひと日

               三島昂之

朝臥し(あさぶし)に如くものはなしやわらかなひかりのなかの鳥のこゑきく

               外塚 喬

そうめんを三口すすて麦茶のむ夏を身体になじませる昼

            東京 青木公正

 

権勢におもねることなき沢庵の誇りを継ぎて庭のすずしさ

                田中成彦

京浜急行おとな七人腰かけて夕焼見ずにスマホあやつる

                田宮朋子

これからは粋なものをば読みまする永井荷風「雨蕭蕭」」を

                松岡達宜

どこでもないどこかへ行きたしふるふると風が抜けゆく晩春の午後

                光栄堯夫

シクラメン花立ち揃ひ阿波踊りの手を挙げ躍るをみなのごとし

                大崎瀬都

スマホスマホスマホ新聞スマホスマホ睡眠スマホ朝の地下鉄

                萩原裕幸

笑ひ声また笑ひ声ひびかせていたましきまでに笑ふテレビは

                川野里子

うすももいろのマスクつければ目力は万倍となるその眼のマツゲ

                寺井 淳

ほどかれるリボンのような伸びをしてわたしの今日を始める二月

                神奈川県 風花 雫

四歳児除染終へたる前庭に除染ごつこと砂遊びする

                福島県  児玉正敏

もしかしてメリーポピンズかも知れぬフリルの傘が春の道行く

                大阪府  瀬川幸子

黄ばみたる結婚式の集合写真花嫁のわれひとり生きをり

                千葉県  旭 千代

三段の石段登り電話する雪国仕様の電話ボックス 

                青森県  高橋圭子

鉄路越え一本道の冬木立北極星の真下の我が家

                兵庫県  小田慶喜

人間の形の日本列島のどこかがいつも大きく痛む

                大阪府  瀬川幸子

秋日和小津の映画の笠智衆真似て長閑な休日とする

                山形県  島田高志

対話型ロボット深く頷いて意地悪なんてしないよきっと

                和歌山県 紀水章夫

「あんさんの主人達者か」問う姑は嫁なる吾をしばし忘れ

                奈良県  松井純代